2012年09月29日

田舎の日記

またしばらくすると 若いの!あんたに一つ 話て於かなければならない事を思い出したよ! 何だ爺さんよ! それは、あんたの家とその周辺の家の祖先たちの事なんだが!
それがどうかしたのか!
その昔 今から120年前 江戸から明治になった頃に そちらの祖先や近所の祖先の若い人たちが近くのそちらの家を昔 流れていた 旧赤川(大梵字川)を越えた辺りに共同の農作業小屋(農具 船をこぐさお 木工道具)を5件の農家の若い皆の衆の集いの場所があったとさぁ。 そこに 明治維新で武士が解体され武家に奉公した人で50歳―60歳くらいの人が失業して乞食をしながら生きながらえてきたがとうとう駄目になってその小屋に居座ってしまった。更に乞食も出来ないほど体も弱りもう一両日中で死ぬ所まで来た所まで来た時にその小屋を管理していた若い衆たちは、ここで死なれると大変面倒になると思い また どうせ死ぬ人だからと言いみなで川へ成仏しろとダボンと放りなげたとさぁ!そしたら 赤痢かチフスか悪い病気で関わった若い衆 みなが 同じくして若死にしたとさぁ。あまりにも不思議な事件なので当時 霊媒師(ミコ)に聞いてみたら 7代まで祟ってやると 言うというとても恐ろしい怨霊となった失業した武士の悲しきまた関わった若い衆も皆 亡くなると言う 恐怖の事件内容だった。まてよ爺さん その家の跡継ぎ、今日まで 満足な家は、ないよ 皆 戦争では、長男が亡くなっているし俺んちも長男が跡をつんでいないよ!あそこも ここも!!!
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2012年09月27日

田舎の日記

久々 松丸爺さん元気かね! 若いの そなたに言う事があってね!私が昭和のあの太平洋戦争前の頃、昭和14年―15年 中国江蘇省へ まだ 日本が行け行けで負け知らずの頃 陸軍少佐(部隊長)の守護兵として中国出兵して大きな寺に陣とってしばらくその寺に駐屯した寺が何と あの空海が真言密教を恵果亜舎利より習得した寺院だったでは、ないか! 思わず 寿秋は、すげぇー どんな様子だったんだよ爺さん! 私もその若い頃は、空海が黒林に1200年前 来た 話を祖母から伝承として聞いていたのでキョロキョロ寺を眺めていたよ! まぁそこで働いている人たちは、みんな 男たちで 大工 百管 瓦工 農業する人 魚を取る人 他にも色んな役割分担にて 130人位の人たちが男所帯でやっていたよ。でぇ空海が来たとかの証拠は、!しかさず寿秋は、聞いた。爺さんいわく やはり先方も日本兵から来られて何されるか怖いから しきりに空海がこの寺と関係が有ったのだと 寺のトップの僧が廊下を渡った所に空海が刻んだ大日如来や菩薩様など100体位有って中国の人が彫った品は、大雑把な刻でありがたさ が感じなかったが空海の彫った品には、日本で見かけるのと殆ど同じでありがたく思えたと。語ってくれた。しかし私から あの真言密教ですよ あの真言密教といっても爺さんには、ただたんに中国出兵の若かれ日 記憶の1ページに過ぎなかったが様子だったが 私からすれば何てすごい話なんだろうとおもった。
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2012年09月26日

田舎の日記

朝市のトイレに辿り着いたが腰から左足にかけビリビリでこれは、不味いなぁ 医者に行かなければ今日は、土曜日で仕事がたまたま休みで助かったよ。寿秋は、立場上 下請けの下請けそのまた下請けだから 労災も ままならなく 事が大きくなれば ちっちゃな会社は、仕事を失ってしまい周りにも迷惑をかけるので今の休みに 家で作業をして痛めたと言うしかないと思った。月曜日 周りや職場に連絡を入れ医者に見せたら ぎっくり腰と 骨盤がヘルニアとも、歪みも含め長年の職業病から来たものだと 天井を眺めるしかなかった。これで俺のアルバイトも終わったなぁ!まぁ終わって見れば また振り出しか!ハローワークより体有っての仕事で有り健康のありがたみをつくづく感じた!参ってなぁ 車もやっとの運転では、何も出来ない。無理出来ないも何もこう痛いので!かなわない。頭の中は、今 これから 過去が所狭しとウズ巻いてた。医者の帰り医者の帰り家の近くまで来ると松丸爺さんが畑で何かしていた 何と95歳の松丸爺さんでは、ないか!スゲェー あの歳で畑いじりとは、軽トラックまで乗り回している。おや!俺に気付いたのかなぁ!手を上げ呼んでいる。痛たた!若いのに情けない!思わずブレーキを踏んだ。


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2012年09月25日

田舎の日記

翌日からは、容赦しない現場の労働にて毎日ヘルメットをかぶり慣れない仕事で配属先が物凄く人間関係が最悪な部所だった。元請負いの班長(主任)クラスが三人もいて 皆 中が悪く足の引っ張りあいで ただでさえ分からない仕事を親方三人で言う事が、バラバラで毎日 参っていたが まぁ長く居るわけでもないし所詮アルバイト、時間限定の3ヶ月の信奉と思って我慢していた。時は、流れ一月半もたったころ、朝市の仕事が班長の三澤さんから大型トラックが来て荷物を降ろすので手伝っくれと!その為二人き来てくれと言われて、同じ電気屋あがりの鈴木さんと荷台おろしにて60Kgも有るミニバルブポンプ 15台を手で降ろす作業にさすがに冷や汗もので2人の息が合わないと大変な目に!息切らしながらやっていたら 親方三澤さんたちがうだつの上がらない俺たちに無理くり 応援して貰うのは、助かるが あの体格の良さは、プロレスラー並み そら行くぞ 数台 捲り上げられ
それを二人で押したとき 転びそうになった寿秋は、思わず 痛たたー!!! 背中を押さえた
ヤバイ ぎっくり腰か!!!思わず しゃがみこみ 周りは、見向きもせず 作業をやっていた
。応援のかいもあり何とか作業が終わり お昼になり プレハブの下請け小屋にたどり着いたとき 左の足から腰の辺りが変だが まわりに気づかれないように何とか仕事を終え家路にすぐ
シップして早く寝たが夜中起きたら起きられなくなっていた腰からしたが電気が走ったようにビリビリ もう駄目だ 腰をやられて 昨日のあの一撃のせいだ。
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2012年09月24日

田舎の日記 

完全に行き詰ってしまった。お手上げである。しばらく 頭を冷却しないとオーバーヒート寸前だった何より失業の身分で奥方からの風あたりも強く生活の為に働かなければと重いハローワークに通う毎日だが 中々仕事に有り付けず 夜も隠しきれない明日への不安で寝付けず これでは、心の病で潰れてしまう、毎日このような悶々としている時に 伊藤 英夫君から 携帯が鳴った おーい元気か! 何とか生きているよ 歴史探訪はかどっているか! 全然! あれ どうした! まぁ スランプだよ! 所で仕事やっている!
全然! もし良かった仕事しないか!アルバイトだよ! あぁやるやる! 伊藤の毎年やっている長期のアルバイトに若干名 募集にて。まぁ ヘルメットを被り 危険区域での
現場仕事で工場とか発電所の配管や特殊機械設備の点検、組み立てなど 土建、建築と同じような仕事にて それでも このご時勢 仕事あるだけでもありがたいと言う現状にて
しかし その前に健康診断が有るが そちらの方のハードルが高いのでは、と言う始末、
歳 食えば あっちこっち異常だらけである。まぁそれもすったもんだあったが 何とか
3ヶ月近く有る仕事にありつく事が出来ていざ 出勤にて!仕事前に親会社から見れば
下請けの下請け ひ孫会社といっても 社長自ら我々といっしょの仕事で人材派遣業みたいな形式なので会社を言っても名ばかりで 母ちゃんが事務仕事にて 6名で数百名の中に投入され 下っ端の下っ端にて、初日は、安全教育の徹底指導にて。
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2012年09月22日

田舎の日記

やはりこの黒林あたりに 秋から春あたりいたんだろうね!湯殿山じゃ冬は豪雪地帯で、とてもじゃないが 半端でなく 人が住める場所でない やはりそうなんだろう 平地を拠点として活動(調査)していたのだろうと寿秋は、思った。しかしここでこれ以上 伝承がそんなに集まらなかった。もう一度 真言宗の寺を片っ端から探りを入れたが 即身仏や寺 独自の目玉ネタ ばかり 強調して 弘法大師 空海を中心に語る寺には、お目にかからないのが現状でした。いかに目先の商売で 自分の所の独自性を出し祈祷や檀家確保
の営利目的が全般に表に出ているが 飯食べるためには、致し方ない現状もあるので 歴史追求には、中々 参考になる話が聞けなくて行き詰まっていた日々でした。そんなある日 佐藤住職の海近寺の本家筋にあたる中連寺に足を運んで見た。ここがあの有名な「月山」の小説で有名になった寺か!なんでも 暴露的内容が小説とは、言え 大分 ショッキングでインパクト大にて即身仏の偽者をどうのこうのしてまで 強かに生きなければならなった 伝統と地域性がうけた小説だったんだろうと考えさせられる内容とは、裏腹に今では この山村の周囲が開発行為なども受け 地滑り地帯に拍車をかけ 村の住民 一人 残らず 数年かけて里へ移住にて 今 この寺だけが残され この現実もまた小説よりキナリにて。!!!一応 住職さんがいたようなので お話でもさせて貰うか!と寺の中へ 夕方も近いせいか 誰もいないと言えば居ないが 奥から 私服で着替えて家へ帰り支度した 男の人がこちらに現れて来た、ズバリこの寺に空海さんが開いたと聞いてやってきましたが現実は、どうなのでしょうか!そう思われればそうなんでしょうね!ここは、不思議な霊現あふれる湯殿山の入り口であり ひとそれぞれの想いがある場所にて!宇宙との一体については、真言とは、宇宙そのものの真実を説かれています。まぁ時間も時間ですので 寿秋は、お決まりの話しかしてくれない住職さんが急いで帰りの身支度をしていましたので ドラを鳴らして参拝してから帰ろうとしたら 住職さんから ドラ(鐘)は、来たとき鳴らすもので 鳴らしたら しばらく ここに居た方が良いといわれ しばらく
風景を眺めていた。抽象的な言葉で終始 終わった 会話に 虚しさとその寺の風景がマッチしていた。やはり 村人たちが地滑りで一人残らずこの寺を残し去ってこの寺だけが残っていて 住職までが 里から通いでは、何とも 力が入らないわけだなぁ と思い 現実の見える現状を察して車に乗り込んで寺を後にした。
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2012年09月21日

田舎の日記

爺さんよ じゃあ この黒林に 伝承があるんだね袖口を切って渡したとかの話しなら 他にも ありましたよ! そんな話しより ここには、数年間住んで いた見たいなんだ!最初に旧赤川をここ 黒林に原野に 河原で今の湯殿山と金峰山に行こうかとして 迷ったあげく 金峰山を目指した いざ山に登ろうとしたら 足が 上がらなく 金縛りにあった見たいだと 仕方なく また 黒林に戻ってきて 何が厄したのだろうか!と色々 考えた 結果 ヨシの茎で箸【はし】をこしらえ 最後にコメツブがついているまま 川に流したのが悪かったと改めて 今度は、湯殿山を目指して 旅だったとさぁ?それで彼が野宿した辺りの住所が『泊山』と今でも残っている話しにて。それと秋から冬は、里に降りてきて この黒林で唐(中国)からの学んだ 技術的 な 大工仕事や 土木技術をこの地域に施した 特に 旧赤川の氾濫をいくらでも防ぐために 堤の強化として柳と薮竹を交互に植えさせ 根の張りにて堤の強化を教えた。そう言えば 三度橋周辺に小さい時 四十年前 小さい時 用水路が旧赤川沿いに有った時 柳と竹が有った 何ともそんな訳について 初めて知った寿秋だった。後に「大師こ」 と言って大師にお世話になった 大工や土木集団が大師を慕いて ちっちゃなお社を築き 年一回 近年までお祭りをしていたと言うんだよ! それなら かなり 真実味がある。空海は、土木建築 鉱山師 でも有った訳だから 納得です。爺さん凄いこと をはなしてくれたね。これなら 次の時代にも何としても伝えなければ!
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2012年09月20日

田舎の日記

いたいた 朝の8時前なので 朝畑仕事が終わり軽トラックが 家の前に止っており 楓
マークつきである。御免ください 爺さんいますか! 生き良いよく 入っていったら
お嫁さんといっても 60歳過ぎのオバサンが出てきて 何か! 松丸爺さんいましたか!と言うと奥の部屋から 元気な95歳とは、思えない 爺さんがでてきた。おたく
何処の誰だ! 龍家の寿秋です。ここのしたのほうの家の!んだんだそうです。何の用事
だ!実は、松丸爺さんがの口伝を中心に黒林の沿革史(地域の歴史書)らしいものが出版され村の一部で見かけて あまりにも評判が悪く 不人気な為 下火になっている あの本についてなんですが 黒林の歴史が 850年 神社を誘致から始まっていましたが この辺は、縄文土器や 柵(古墳〜奈良時代)などの話なども有り とても 850年は、ちょと
疑問に思いまして! まして 弘法大師 (空海)の伝承があれば 優に 1200年は、くだらないと思いますが! あれぁ 空海の事 載ってなかったか! 全然!俺がきちんと話たはずだが 自分たちの祖先のことばかり 中心に書こうとしたからじゃ!!!
そうなんだ! やはり 爺さんも空海の口伝は、教えられておおきくなったんだね! そうだとも! あの空海は、この黒林になくては、ならなかったお人じゃ!!!

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2012年09月14日

田舎の日記

平泉藤原氏の血筋でも有る田川行文(田川太郎)
その太古の時代より蝦夷と東北(出羽国)更には平安末期時代、奥州平泉藤原氏の日本海の湊を守っていた家臣団の一人で有る人物であるし 今の羽黒山神社(明治以前は、立派なお寺さんにて、それを奥州藤原氏の命を受け整備した出羽庄内には、忘れては、ならない人物である。遥か太古の時代に日本海側と大陸との行き来往来は、西側より東側の方が活発であり何故か歴史の本には、出てこないが事実は、東北日本海側と大陸とは、密接な関係であった。その証拠に 大和朝廷が西暦709年ごろまで 新潟(越の国)止まりで出羽進出まで150年間もかかっていた、それは、何故か地元蝦夷の援軍が大陸から来ており それが途絶えた時、一機に大和朝廷より押されたかんじだが それ以降も番外置で奥州藤原氏が栄華を極めた土地柄である。何故か表の歴史は、語ろうとは、しない。実は、そこに歴史の真実が眠っているような気がする。また奥州藤原氏が兄源頼朝から追われて逃げる 源義経のを助けたのも出羽の入り口現在の山形県鶴岡市の南の外れより田川太郎が 手厚く向かい入れ奥州まで届けたエピソードは、有名であり また 新潟県境の鼠ヶ関の関所
わざと 逃がした 代官もやがては、追われ 田川太郎の所に逃げてきて匿ったのは、地元だけが知る史実にて。

中国文献に載っている資料より
 渤海は現在の中国東北部とロシア、北朝鮮にまたがる、朝鮮系の高句麗遺民と
高句麗の北の国にある靺鞨族とでつくられた国である。
渤海と日本との交流は、記録があるだけで 計37回にもわたり、遣唐使が20年に1度なのに対して、2.3年に1度の割り合いという多さなのだという。

727年に始まり、わかっているだけで、少なくとも34回、使節団として2500人が日本に来たとさせる(ちなみに遣渤海使は14回)。
遣唐使にくらべて 渤海使は あまりにも軽視されてきたのではないのかと思えるほどだ。
渤海国は、最近でこそ韓国ドラマの“大祚栄”でも注目されたりしているが、
その実はほとんどわかっていない謎の多い国のようだ。

 当時は 東京/上京という渤海の首都から“日本道”という日本海につづく道もあった。
その終点の、日本海側にある現ロシア沿海地方のクラスキノ遺跡の発掘場所を紹介する。
発掘は まだはじまったばかりなのか、一部しか発掘されていない。
これからの発掘調査が楽しみだ。

平安末期の平泉政権奥州藤原清衡が平泉と京都を結ぶ玄関口として「酒田湊」を開き利用していた。
当時上方や朝鮮半島からもたらされた仏教美術品が廻船で酒田湊に運び、最上川を小舟で上り、本合海(現在の新庄市本合海)で一旦陸揚げし、牛馬の背に乗せて陸路を平泉に向かったという。当時の交易品の運搬は大半が太平洋ルートでなく、陸路でもなく日本海ルートを使っていた。
頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹(徳の前)もしくは後室(徳尼公)を守り36人の遺臣が落ち延びた。秋田市久保田でその姫が乗ってきた白馬が死に、其の地に草庵を作り祭った(草庵の跡に現在の白馬寺が出来たと云うが、現在の白馬寺は1500年頃に出来た寺で其の寺には伝承や古文書などは伝わっていないと云う。)と云い、暫く其の地に滞在した。その後一行は南下して、東田川郡立川町立谷沢の羽黒山(藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられた時、田川太郎を奉行に命じ羽黒山神社の本社の大修理を行っていたからか?羽黒山中の荒沢寺に徳尼公の木造が伝わり、羽黒三山神社の斎館に徳尼公の位牌が伝わっている。)の麓付近に3年程住んだ後、酒田湊{浜中、黒森、八重浜、十里塚}(当時向かい酒田=酒田市袖浦地区飯盛山付近)に逃れたという。そこに徳尼公が小さな草庵(泉流庵と云い、其の跡地に泉流寺が出来た。)を結び、90歳で亡く(1217年4月15日)なったと云う。

出羽国念珠の関(鼠ケ関)が最後の難所であった。出羽国に入ると、平泉藤原氏の領国であり、この関が最後の難関であった。今日伝えるところの鼠ケ関址は江戸時代の関であり、出羽国側にあるが、中世の関は越後領の鼠噛岩といふ海上に突出した地にあったようである。いはば勿来処(くなど)・勿経処(ふなど)の地であり、国境の塞の神を祀る難所に関所が設けられ、海坂神(うなさかがみ)、石動神社を祀っていた。鼠噛岩は海蝕によるものだが、あたかも鼠噛りのやうな岩形をとどめている。
弁慶は念珠ケ関にかかるや、義経を下種(げす)山伏に作りなし、二挺の笈を嵩高(かさだか)に負わせ、「あゆめや法師」と木の枝で鞭うちながら関に近づいた。関守は「何の咎(とが)あって痛めつけるか」と聞くと、「我等は熊野山伏だが、この男は先祖代々熊野に仕えて来た山伏の家の者なのに、旅の途中から行方知れずとなり、漸く最近見つけ出したというわけで、どんなひどい罰でも受けさせたい。」という中にも隙もなく打ち据えて通った。関守は弁慶の機智にまどわされ関の木戸を開けて一行を通した。関をすぎると程なく出羽国に入り、原海(現在のJR鼠ケ関駅前)に宿り、海ぞひの道をたどる。『おくのほそ道』の芭蕉は義経一行とは逆に越後路を目指したわけだが、曾良の『随行日記』は鬼の掛橋の難所を筆にとどめている。まして『義経記』の成立期には道らしき道もなかったであろう。小波渡(こはと)から一行は笠取山に入り、三瀬の薬師堂に向う。
今日薬師堂址はスキー場(八森山ヒュッテ)になっている。『義経物語』や田中本『義経記』では「みせんの薬師」とあるが、これを弥山(温海嶽)として、熊野信仰を指摘した説があるが、温海嶽に熊野権現の祀られたのは近世に入ってからで、「みせん」は「三瀬」の訛語であろう。
義経主従は三瀬の薬師堂で雨降に遭い、出水のため二、三日逗留した。山地ではちよっとした雨でも出水になり、あるがなきかの道は川となつて溢れ出す。
三瀬の薬師堂へ、田川郡の領主田川太郎の使者が来て祈祷を依頼する。使者の話によると、田川太郎の子供が瘧病にかかり、羽黒山が近いので、羽黒山伏を請じて祈って貰ったが、その効験もない。「熊野・羽黒とて、いづれも威光は劣らせ給はぬ事なれども、熊野と申すはいま一入(ひとしほ)尊き御事なれば」貴方がた行者たちもきっと霊験あらたかなことだろうから御祈祷願ひたいという。田川氏の居館に招かれ、義経は護身の役、弁慶は数珠を揉(も)んで祈祷すると、悪霊も死霊も去って、病人は平癒する。
田川太郎の領国庄内の地に威勢を振っていた。『出羽国風土略記』によると、田川氏の居館は田川村の山の際にあり、今は田畑となつて構の土手のみ僅かに残るとしているが、現在は田川小中学校の敷地となつている。田川村字西山の斎藤金治郎氏の敷地内に田川氏の基があるが、典型的な鎌倉期の石塔であり、その巨大さから見て、かっての田川氏の威勢を知ることができる。田川氏の居館は、『義経記』に記すように「羽黒近き」羽黒山信仰のお膝もとで、その領主が「熊野の権現と申すは(羽黒より)いま一入尊き御事なれば」と発言し弁慶の祈祷の結果、「(熊野)権現の御威光の程も思ひ知られ」たというのは、義経記「北国落」が東北文芸として成立したといふ説を否定している。かかる発言は羽黒信仰の強烈だつた東北地方では許容される筈がない。羽黒より熊野が一入尊いとする「北国落」の田川太郎説話は田川氏を代表とする熊野信仰がこの地に成立していたことを明らかにしている。
旧西田川郡や鶴岡市の各部落に殆んどといってよい程、各部落に熊野社が見られる。庄内平野に秀麗な山容を誇る金峯山は、天台宗の三祖慈覚大師円仁の開基と伝える。東北地方の霊地は多く慈覚の開基を称するが、彼の弟子であり継嗣であった延暦寺座主安慧(あんね)が承和十一年(八四四)出羽の講師(こうじ)となつて以来のことで、早くから天台修験が東北地方に進出し、金峯山もまた天台修験の地として、この周辺の熊野信仰の聖地となつていたものであろう。金峯山は古くは蓮華峯といひ、八葉山と呼んだというが、戸川安章氏によると、蓮薬峯・八葉山ともに、天台宗の最も尊重する妙法蓮華経から採ったものであり、蓮の花弁が八葉に分かれていることに基づいている。金峯山青竜寺は久安元年(一一四五)藤原秀衡の再建と伝へているのは、恐らく秀衡の臣であった田川氏によるものと考えてよく、金峯山・熊野長峯・虚空蔵山の三山に囲こまれた地点に田川氏の居館を見る。いはば田川氏は天台系熊野信仰のもとにその勢力を結集していたのである。三瀬葉山の薬師堂もまた東北地方に多い葉山修験の信仰によるものであり、田川氏の居館へは尾根伝ひに通ずる。三山には峯入りのための道が早くから拓かれていたが、田川氏の居館に通ずる道もまた修験者によって拓かれたと考えられる。
弁慶、勧進帳の名場面

 一行は京都から山越えに琵琶湖畔に出、湖水を船で渡り、越前の国〈福井県〉で三の口という関所を通り、加賀の国(石川県)の安宅(あたか)の関所にさしかかる。
 弁慶が、南部東大寺の大仏殿建立のため、諸国を勧進する山伏と申述べ、関守の疑問を解く為に、偽りの勧進帳を読む場面は有名である。
 安宅の関の難関を脱し、海に沿って北へ北へと進んで行った義経主従は、山に寝、辻堂に一夜を過ごし、艱難辛苦して越後の直江津にたどり着く。そこの花園の観音堂に一泊。
ここからは船で越後の寺泊へ渡り、八十八里の浜を過ぎ念珠ケ関(山形県温海町)へさしかかる。
 暗和40年、NHKテレビドラマ「源義経」放映時、義経に対する関心が高まり、鼠ヶ関ではこれを記念し、昭和41年、原作者村上元三拝牽による「源義経ゆかりの碑」が鼠ヶ関の弁天島に建立された。

出羽国に入り、ほっと一息

 義経主従一行は、或る時は羽黒山の山伏、或る時は熊野山の山伏と称して世の目を忍び、長い苦しい潜行の末、ようやく出羽の国へ入つた彼らは、ここからは秀衡の知行所であるとのことで、もう大丈夫だろうと安心し、出水のため三瀬(鶴岡市)の薬師堂に二、三日逗留し旅の疲労を癒す。ついでに田川都の領主田川太郎実房の依頼により、彼の13歳になる一人息子のぎゃへい(物怪)を祈祷によって平癒させ、かくて田川をも発ち、大泉荘大梵寺(鶴岡のこと)を通過し、3月3日清川(立川町、後に勤皇の志士清川八郎の生地)に着き、五所王子〈御諸皇子)神社で一夜をあかした。(昭和40年NHKドラマ源義経」出演の女優藤純子が当時参詣している)御諸皇子の前で御神楽を舞わせ、翌日船で最上川をさかのぼっている。
 本合海か清水で下船。ここから陸路亀割峠を越えて小国郷に入り、堺田、鳴子を経て奥州平泉に逃れたといわれる。
 清川の近く、白糸の滝ドライブイン近くの仙人堂は、義経の従者常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)を祀ったお堂である。最上川をさかのぼった沓喰部落くつはみは、義経の馬にくつわをはめた場所といわれる。


義経は、平泉に到着、秀衡の伽羅の御所の宴の席で、秀衡の子、泰衡、国衡、忠衡と家臣団の紹介を受ける。
 家臣団には、河田次郎、照井高道、佐藤元治、田川太郎、金剛別当秀綱らが登場するが、このうちの田川太郎の一族は、出羽の国、現在の庄内地方東田川郡・西田川郡を所領していた。
 また、秀衡の妹は 徳子、徳前とよばれ、岩城次郎太の未亡人とだったので、徳子尼(トクコアマ)、徳尼公、徳尼さまともよばれた。平泉が鎌倉に敗れた後、彼女の一族でもある、田川太郎をたよろうと大勢の従者とともに一時、立谷沢地区に隠れ住んだ。そこは、妹沢(イモトサワ)と呼ばれ 現在では集落はなく、徳子尼の遺跡や伝説のみが残る。
 徳子尼は、さらにその後、酒田へと移り住んだ。泉流寺のある場所といわれている。そのときの従士、子孫らは、36人衆と呼ばれ、徳子尼を祀り、酒田の街つくりをした。

歴史に もしは、ないといわれるがあえて、
秀衡の遺言どおりに、藤原3兄弟で 義経を大将にして戦っていたら、
泰衡ではなく、国衡を4代目にしていたなら、
国見ではなく、白河の関で鎌倉軍を迎え撃っていたなら・・・など。

 昔から多く語られてきたことだが無念さが残る。

 ところで 安宅の関の話の後、義経主従は無事に平泉に到着したが、
途中の行動が、ドラマでは演じられていないので少し。

 北陸路から念珠ヶ関を越えて 当時平泉の所領であった山形県(庄内)に入り、
清河(庄内町)にある五所の王子社に参拝し、最上川(最上峡)をさかのぼっている。

 現在の国道47号線を新庄へ向かう道である。
その数百年後、”奥の細道”で有名な芭蕉も同じ道を通るのだが、
義経のルートとはちょうど逆方向(新庄から庄内)に通る。

 途中の羽黒山には、頼朝が寄進したといわれる黄金堂(こがねどう・国の重要文化財)がある。
頼朝が平泉を討つにあたり、勝利祈願(1193)し、その御礼に寄進したとも伝えられる。

 黄金堂という社名は、平泉の金色堂を思い起こさせる。
他にもたくさんある出羽三山の神社、寺院のなかで、
なぜ、頼朝は黄金堂を寄進したのだろう?
それも場所が羽黒山の随神門や山頂からかなり離れている
羽黒山の宿場町、手向(とうげ)の入り口近くに。
社名からして頼朝も平泉の金色堂を意識したのかもしれない。

 ドラマでは、頼朝が念仏堂にこもっているのに、政子と時政がはしゃいでいて
ふと藤原氏や義経が敗北したのは頼朝ではなく 北条氏なのかな?と思ったりした。
 藤原氏や義経の無念さでは終わらせないで
きれいな形でよい印象に残すように配慮されていたと思う。


(※ 写真は黄金伝説などがある黄金堂。雪囲い中の05年秋に撮影。
色は金色ではなく何も塗られていない無垢のお堂。
正善院という寺でもあり、建立は、
古く聖武天皇の時代、728年(神亀5)とも伝えられる。)

 田川には田川太郎の館があり、『義経記』に源義経と弁慶が祈祷をして、太郎の子の病を治したと記されています。それで義経と弁慶は行をしめたのが行〆という伝説があります。

庄内地方の義経伝説
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 期待されながも夭折した人物を応援したい心情からか、日本人は義経のような人物に強く惹かれるところがある。平泉に落ち延びる経路であった庄内地方には、至る所に義経伝説が残り、語り継がれている。
伝説第一話、
 「念珠関(ねずがせき)」では、義経一行は羽黒山の山伏姿になり、弁慶は義経には二つの笈を負わせて、後ろから「歩けや法師」と杖で打ちすえて、関所を通ることができたと言われる。昭和40年頃、ドラマ「源義経」の放映を記念し、原作者村上元三の筆による「源義経ゆかりの浜」という碑を「鼠ヶ関」に建立している。(史実と思う)
伝説第二話、
源義経一行が庄内町清川に立ち寄り、御諸皇子神社(ごしょのうじじんじゃ) で一夜を明かした。その時、御諸皇子神社に奉納されたという義経の笛や弁慶の祈願文が今でも残されている。幕末に活躍した清川八郎の祖母は余目の宮曽根村・佐藤市郎左右衛門の出で、この家は義経四天王の一人佐藤継信の子孫だという。(史実と思う)
伝説第三話、
酒田市本楯には「新田目城」(あらだめ)があるが、ここにも義経一行が 立ち寄り、太刀一振りを献上したという伝説が残る。この太刀は今もあるが、それを証明する古文書は戦後まもなく失火で消失したという。義経の当時、「新田目城」 は東北では、多賀城と並ぶ規模の大きい城であり、義経一行が挨拶を兼ねて立ち寄ったことも想像は出来る。あるいは、新田目城側から挨拶に出向いたことも考えられる。
 ただ、先を急ぐ一行は清川辺りから最上川を舟で遡ったとの伝説の方が自然に思われる。(本楯の人は残念だろうが、疑問が残る)
伝説第四話、
 遊佐町の月光川(がっこうがわ)に架かる、映画「おくりびと」が撮影された「朝日橋」から、約一キロ上流の右岸あたりに、「もんぺはげ」と呼ばれる崖が ある。この崖は、遠くから見ると「もんぺ」のような形で、崖の地肌が見えることから「モンペはげ」と呼んでいた。この崖は弁慶が滑り降りたときに出来たという伝説がある。(そう聞かされたが、作り話だろう)
 この「モンペはげ」前の月光川の河原では、よく「芋煮会」をやったものだが、最近では、朝日橋の辺りが指定の場所のようだ。

2) 源義経伝説
 源義経は、鎌倉幕府創立期に活躍した武将である。父は源義朝、母は九條院の雑仕(下級の女官)常盤である。
 幼名は牛若、通称九郎。「義経記」によると、義経の生まれた平治元年(1159)の暮れに平治の乱があり、この戦いで平氏と対立した父義朝は、翌年正月、敗走の途中殺された。牛若も母とともに捕われたが一命を助けられ、母の再婚した大蔵卿・藤原長成に養われた。 のち鞍馬山に送られたが、16歳のとき出家を嫌って陸奥の藤原秀衡を頼って奥州平泉におもむいた。
 治承四年(1180)兄頼朝の挙兵を知って、同年10月21日黄瀬川の陣で兄に対面、その後、壇の浦の合戦など、各地において平氏の軍勢を撃破し、はなばなしい戦功をたて、一躍名将としての名を馳せた。

 しかし兄頼朝にとって、壇の浦の戦いで安徳天皇と三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺曲玉瓊勾玉)のうちの剣を失ったことは、義経の大きな戦功とは裏腹に、大きな衝撃であった。さらに朝廷が頼朝に無断で義経に官位を与えたことや、頼朝の側近側梶原景時が義経の専断・独断を訴えたことなどがこれに拍車をかけ、ついに義経追討の命が下った。
 やむなく義経は西海に逃れようとして船出したが暴風にあって難破し、その後、吉野・奈良・叡山・伊勢・美濃などを転々として隠れ歩いた。ついに、義経は奥州藤原氏を頼って越後から庄内へ向かった。
「念珠の関守きびしく、通るべきよしもなければ如何せんと仰せられ」とある。
 そのころ奥州に入る関所は、白河の関と出羽の念珠ケ関の二つであった。弁慶の機転により義経を身分の低い山伏に仕立てて二つの笈を持たせ、大きな若木の枝でしたたかに叩きながら、関守が呆気にとられている間に、無事木戸を通ったという。

 それから海岸の細道を通って三瀬の薬師堂に着き、出水のため2〜3日滞在した。
田川の豪族・田川太郎の一子が悪病に悩まされていた折柄、熊野山伏一行が三瀬にいると聞き及び、一行に祈祷を頼みに来た。義経たちは止むを得ず出かけ、数珠押しもんで祈祷し、首尾よく悪病をなおしたという。
それより大梵寺・鶴岡を通り、北の方の産月間近なので羽黒山に弁慶を代参させ、清川の五所王子の前で一夜を明かし、最上川を遡った。

 なお、清川の斎藤家系譜(清川八郎の生家の系譜)に、次のことが書いてある。
 「義経潜行して清川に至るとき、斎藤治兵衛の家に迎えて数日歓待す。義経、弁慶をして羽黒山に代参せしむ(そのころの羽黒山表参道は、立谷沢村蜂子よりとした)。去るに臨んで佩る所の刀を解て寄贈す。刀はすなわち鬼王丸の作なり。今なお保存して家宝とすると。」

    最上川岩こす浪に月さへて よるをもろしき白糸の滝    義経
    最上川瀬々の岩なみ早ければ よらでぞ通る白糸の滝  北の方

 以上の歌が遺っているところを見ると、日中の人目を避け、夜に最上川を遡行したものと思う。文治三年(1187)、義経一行は最上川を遡行して奥州平泉にたどり着いたが、頼りにしていた秀衡が死ぬと、翌四年2月、義経追討の宣旨(天皇の命令を伝える文書)が下り、京都・鎌倉からの藤原氏追求がきびしくなった。

 同五年閏4月30日、義経は藤原秀衡の子・泰衡のために、妻子とともに衣川館で殺され31歳の生涯を終えた。鞍馬山から奥州平泉の秀衡を頼っていったのは、行商人金売吉次のすすめと、その案内によるところが大きかったという

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田舎の日記

いたいた 朝の8時前なので 朝畑仕事が終わり軽トラックが 家の前に止っており 楓
マークつきである。御免ください 爺さんいますか! 生き良いよく 入っていったら
お嫁さんといっても 60歳過ぎのオバサンが出てきて 何か! 松丸爺さんいましたか!と言うと奥の部屋から 元気な95歳とは、思えない 爺さんがでてきた。おたく
何処の誰だ! 龍家の寿秋です。ここのしたのほうの家の!んだんだそうです。何の用事
だ!実は、松丸爺さんがの口伝を中心に黒林の沿革史(地域の歴史書)らしいものが出版され村の一部で見かけて あまりにも評判が悪く 不人気な為 下火になっている あの本についてなんですが 黒林の歴史が 850年 神社を誘致から始まっていましたが この辺は、縄文土器や 柵(古墳〜奈良時代)などの話なども有り とても 850年は、ちょと
疑問に思いまして! まして 弘法大師 (空海)の伝承があれば 優に 1200年は、くだらないと思いますが! あれぁ 空海の事 載ってなかったか! 全然!俺がきちんと話たはずだが 自分たちの祖先のことばかり 中心に書こうとしたからじゃ!!!
そうなんだ! やはり 爺さんも空海の口伝は、教えられておおきくなったんだね! そうだとも! あの空海は、この黒林になくては、ならなかったお人じゃ!!!

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2012年09月13日

田舎の日記

それから 鳥海山にも 表れその付近で有名な玉すだれ滝の名前も彼が名付け親だとか!その他 赤川の本当の名前は、大梵字川でいかにも インド梵語(サンスクリット) の真言密教の名に恥じない 素晴らしいネーミングもやはり 空海によって 名付けられ 江戸の終わりか明治頃になって 河川改修工事を手掛けた 人の名前の赤川氏で功労が有り 赤川に改名された話しなどからも この地域と空海は、密接関係ででやはり この地域に大きな足跡を残しておりなぜ 正規の歴史に載せれなかった訳を益々 知りたくなった。ところで 肝腎な自分の地元 黒林には、来た だけでなく もっと凄い伝承は、ないものかと と思い 公民館へ そこの担当に 尋ねたら 良い本あるよ と 言われて 最近まとめた人がいて 村の沿革史(えんかくし) になる品かもと言われて 見せてもらった。でも あーれ!空海の くの字もなく だいたいこの黒林は、850年前に 神社を京都から 認可をもらい それが 始まりとか! おいおい それじゃ 空海 1200年前に来た 伝承は!この土地には、縄文土器も出土しているのに 可笑しいなぁ 誰が 何をベースに! 古老に聞く あれ 松丸爺さん95才で 軽トラックを運転して 畑を耕し 色んな事を知っていて 未だに ボケ無しの スーパー爺と この辺りでは、知らない人いない程 スーパー爺である。しかし 何故 それほどの爺さんが?よし 一度、爺さんの家に行って確かめなければ!
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2012年09月12日

田舎の日記

佐藤住職の話しに 納得しない事も有り 空海の伝承を知っていると言う人を片っ端から探し 訪ねて見る必要性と 大半が 老人たちで有る為 寿秋としては、ある良きアイデアが有った。まぁ兎に角 寺を出よう即身仏・ミイラの伝承は、また あとで 機会を儲けて?同級生の佐藤住職にお礼を告げ階段をおりた。ここにも 空海が訪れたのであろう そんな高台に有るパワースポットを感じる 素晴らしい土地に立っているお寺だけ有って参拝者の後がたたなく繁盛の様子が伺える。
寺を後にした寿秋は、空海が もし 来るとしたら 唐から来て間もなく太宰府に足留め食らった 三年から数年の全く 記録が無かった時期であろう!また船を使えば日本海側北航路で 充分可能性が大にて。よし それなら 片っ端から伝承を探すぞ と意気込み 旧赤川沿いの 爺 婆さん たちの集まり所へ 唐突に話しを切り出した。駄目もとして あっち こっち 中々 解らない 老人は、多い 事に驚いた そんな中で 浜辺地区で おらほへ コジキみだいなぁ 坊主 昔 昔 来たなんけどや あんまり気持ち悪いので どうか 暖と 食べ物をお願いしている 坊主に対して 石投げて 追い返してやったんぞ そしたら 毎年 浜辺に 薪が海から 流れて来るのに それ以来 流れて来なくなり 薪に不自由に村がなって 罰が当たったんだど。それに対して もっと先の海岸地区の村の油板と言う所では、その坊さんを 数少ない薪で貴重でしたが 坊さんの為にそれで暖を取り オカユを煮て 食べさせたとさぁ!そしたら お礼に 来年から 沢山の薪が流れて来て 冬に必要なだけ来ると言われるその通りいっぱい枝が流れて冬に困らなくなった話しにて。
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2012年09月11日

田舎の日記

佐藤住職とは、確か星山君と今も仲良しで行き来往来しているはずで有るので彼から連絡を取って貰い、一度会う事にしてもらった。久々で会って見ると 高校時の悪ガキ だった時の話しで盛り上がった。私の方から切り出した。佐藤住職に是非とも聞きたい事が会ってなぁ!空海や真言密教とか調べていて全然解らないので教えてもらいたいんだ? 何をお前 プロでも無いのに どういう心の心境か!実は空海がこの地域に来た事が本当のような感じしてならないんだが!真言密教 の寺として から見ての見解は、どう思う! ズバリ 本人は、来てなく 弟子が その後に訪れたのでは、無いかと思うこの地域には、空海が来た伝承が有るが 正式な文献が 全国レベルでこの土地に来た 記録がないのが 致命的だと思う! そうか 専門がそう言うのでは、やっぱりそうなのかなぁ!それよりなぁー 即身仏・ミイラの伝承も凄い歴史的意味があるよ!しかし寿秋は、なぜか ひかかっていた。それは、彼の天性の第六感が働いた証で有った、後に第六感が見事に炸裂するとは、今の時点では、予想もつかなかっただろう!
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2012年09月10日

田舎の日記

さぁーて 空海が来た 文献が2つ 3つ有る中で 宮野表からと 書いて 有るが 大日如来が 現れて それに導かれる 様子だと 実際 その辺りの現場に足を入れなければと 寿秋は、浜辺から米盛山の50メーター弱の 高さの山と言うよりは、丘と言っていい所で暫く考えていた。何か 距離が文献で表している何里 何里 と 表しているが ボイント ポイント ごと 風景とミス マッチングしているような気がした。何でだろう!1200前の話しだからかなぁ!後 最上川と旧赤川が合流したとしたら この米盛山の辺りでもあるが何故が釈然としないなぁ?山の中を走っている川なら 谷間を行くので 千年単位でも 同じ場所だと思うが 二本も三本も川が合流、しかも この広い平野を蛇のように曲がりくねって 川幅や位置を変えていると思うので今の宮野表の浜辺やら砂丘に疑問が感じると自分なりに考えていた。そんな時 パット閃いた、空海と言えば 密教 えーと 高校時代のクラスは、別だが お寺さんの後を就いている佐藤がいたのを 思い出した あの当時 悪友のそのまた友にて。一応連絡とるか!
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2012年09月07日

田舎の日記

そうした向きと距離についてペルシャや中東、古代ローマ帝国の教えすなわち景教の影響か!神社 仏閣も みな 歴史が有り 生きて行く為に、光と闇 表と裏 陰陽が有るので きちんと見極めが必要かと!待てよ そうすれば 仏教関係は、蘇我氏が広めた経緯から 紀元前 神武天皇から 始まったと された 日本書紀 古事記 での 内容は、神社であり 当然 大分 古い歴史で有ることが考えられる 逆にそう言った地域に伝わる 口伝や伝承に何かが大いに 隠されているものと寿秋は、確信するのだった。しかし 原点は、空海を調べているのだから 地元に残されている資料を探す事にて 最初に何から初めてようかと迷っていたが赤川と言う川を上って 湯殿山を目指す訳だから赤川を調べなくては、当然 伝承も 必ず 有るはず 自分の家にも こうして 偉い坊さんが 来たんだと有るくらいだからと!
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2012年09月06日

田舎の日記

暇をみては、信樹から借りた本を熟読した。しかし 何故か 解らない 部分が多すぎる。もう 文献とか 証拠物 以上に スピリチュアルな要素を取り入れて 自分の頭で組み立てて 考えていかないといけない。何が本当で何が嘘か?真実とは!まぁ兎に角 片っ端から 本を読みあさったし 暇をみては、神社仏閣に 足を運んだ。周りからは、 彼は、いよいよ 頭が変になり 近寄らない方が良いとまで噂されたが そんなの お構い無しで調査に挑んだ。見れば見る程 知れば知る程 摩訶不思議で有る。何故 神社の鳥居 に 赤と白の二種類が有って 何が目的で使い分けているのか?お稲荷様も本当は、狐の神様では、無く 豊受の神様で稲の大黒会ったのが様がどう変身して いつから狐様になり厚揚げが御供物になったのか!神社の方角が皆まちまちで有ったり神社やお寺にもその時代の権力者や利権からみに影響を受け 皆 生き残りを掛けて進化して行った様子が伺える。例えば 正門から 真っ直ぐで無く 20度位 ずらしてて居たり また 屋根の装飾品もその対象にて。
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2012年09月05日

田舎の日記 

そうか!そうだったのか!トテツもなく 偉く 偉い 坊さんとは、弘法大師 空海 だったんだと 改めて 事の重大性に気付いた。 しかし 何故 このような 場所に! 田辺先生より 更に 歴史を勉強しなければならない そうだ どうせ いまいま 仕事が見つかりそうでも無いし 何か好きな事でもやった方が気が楽になる。寿秋は、善は、急げと 本屋と図書館に入れ込み毎日が始まった。
それと幼なじみの
斉藤 信樹君を 思い出した。彼こそ 生き字引的 色んなジャンルを問わず 本と言う本を読み尽くしてきた天才的存在も居たことを思いだした。彼に会いに行った時、信樹よ 俺の話し聞いてくれるか? なんだよ トシさんよ 改まって? またこの年なってから 好きな郷土歴史にはまって 図書館や本屋に入り浸っているのだか! 知っているよ! そちらの同級生の 高徳が 寿秋、失業して職に着けなくって 頭 おかしくなって 変な 宗教の本 読み漁っていると ウツ気だとか 直治が 神社や寺周りしている トシさんを見て いよいよ だなぁ 川に身投げが迫っているとか 噂していたよ? いいよ 良い職業や安定している生活を送れる奴らのどうせ 下らない噂など 気にしないよ 言いたい奴は、何とでも言ってくれ! それより信樹よ この里は、実は
縄文土器が出土していると言う事は、歴史が有り かなりの文明が有ったと言う事では、ないかね?それと 日本海の海も近いし 大陸と往き来往来も含め 太古の文明がもしかしたら 有ったのでは、ないか!んー 否定は、しない それと ちょっと類似するんだが 聖書の裏読み見たいな本で最近の文明の起こりを書いた 一般には、知られていない本をかすよ ニビル星からのアヌンナキ エンキが出てきて 人類に影響を与えた宇宙人の話しさぁ! えー宇宙人? わかったよ 竹内文書にも宇宙から書いてあったし 一応借りるよ!
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2012年09月04日

田舎の日記

出羽三山内派閥抗争 とりねこ より引用 3

羽黒山と湯殿山の泥沼の闘いは廃仏毀釈の衝撃によってようやく落ち着くこととなった。庄内藩は幕府勢力として戦っていたため、廃仏毀釈の太政官布告が寺院に通達されたのは明治二年五月であった。もともと修験道は密教、道教、民俗宗教などが混淆した宗教であり、神仏分離が不可能であるため出羽三山は混乱した。明治三年、湯殿山四ヶ寺は旧幕府による判決通り、湯殿山は空海開基による仏法の山で、太政官布告に違反しないことを上申した。さらに湯殿山は、月山のようには国史に出ておらず、仏の山であり、神の山ではないことを証明するように国に求めたが、神祇官は証拠のみつからないまま、明治四年に湯殿山を神の山と決定してしまった。これより後は湯殿山川寺院は神道に改宗しなければ湯殿山奥の院の支配権を失うことになり、裏口の本道寺、大日寺は神道に改宗した。
一方、羽黒山も明治三年に新山と決定され、四年に上層部の別当と山内がいち早く神道に切り替えた。荒沢寺、積善院、金剛樹院だけが仏教徒してとどまったが、これは将来仏教が再び盛んになる時代のためにの用心として仏像や仏具と共に残しておこうという政治的配慮だった。しかし別当の交代により、結局は全て神道へ改宗した。

以上みてきたように、湯殿山で熱狂的に即身仏が信仰され、また即身仏が作られたのは、羽黒山との争いの中で自らの出所を真言宗へ求め、空海の入定伝説によるところが大きかった。自らの正統性を主張するべく、湯殿山側寺院が一世行人を即身仏にして祀り上げて自ら盛り上がっていた側面があったのではないだろうか。

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2012年09月03日

田舎の日記

出羽三山内派閥抗争 とりねこ より引用 2

二回目の訴訟に敗れてから2年後の4月、配下の悪僧に後継者問題によって謀られ、天宥は幕府によって伊豆の新島へ流刑となった。一方湯殿山側では天和3年、本明海上人が入定即身仏第二号となる。続いてその四年後に貞享4年には全海上人が入定、宝暦5年忠海上人が入定、天明三年には真如海上人が入定と、寛文年間の訴訟後に急激に湯殿山の入定即死物が誕生し、湯殿山は全盛期を迎える。
訴訟において主張した「空海の弟子であり、即身成仏をめざす一世行人なり」を実証してみせた結果になった。勢いのついた湯殿山側は天明6年、湯殿四ヶ寺は連盟で湯殿山の浄土口と装束場へ「湯殿山法則」と呼ばれる真言四ヶ寺による湯殿山独占宣言をだした。これを受けて天宥の依頼を受けた寛永寺から庄内藩へ交渉の使者が立ったが、庄内藩では撤去の理由無し、と返事される。やむなく羽黒山側は幕府へ再び上訴。八年間の訴訟の後、「羽黒湯殿とも曖昧な点が多い、従ってその当否を判断できない。故に各別当は先規の法流を遵守して、相互に相犯すことがあってはならない」と判決が出た。

羽黒山側が湯殿山を吸収したかったのには信仰上の理由もあった。「三関三渡」とは羽黒山は現世の観音、月山は阿弥陀浄土、湯殿山は大日法身の地である寂光浄土。「三山三宿」羽黒山は胎蔵界、月山は金剛界、湯殿山は金胎一致の理想世界。湯殿山は三山総奥院で最神秘の礼状とされて、別格であったのだった。
江戸時代になり出羽三山信仰が盛んになると、三山を順番に拝まなくても湯殿山にだけ上って拝めば三山を拝んだのと同じご利益があるとされて、八方七口のうちで、湯殿山四ヶ寺は独自の発展を遂げて大きくなった。羽黒山側は急成長する湯殿山勢力に不安を感じた。 寛永七年、羽黒山では天宥が第五十世別当に就任した。天宥は政治的手腕に優れ、幕府権力と結びつき、湯殿山勢力を支配下において羽黒山の躍進を図った。
寛永十一年、天宥は江戸城にのぼり、公儀へ別当の跡目相続の挨拶をし、将軍や老中、天海僧正などに贈り物をした。寛永十三年より、天宥は隔年で江戸へ上がるようになる。寛永十八年、それまで天台宗を中心に顕密禅と各宗入り乱れていた羽黒山を全山天台宗に改宗統一し、天海の弟子となった。こうして天海に接近した天宥は、羽黒山末に湯殿山四ヶ寺をしてほしいと頼み込んでいる。寛文五年1665、天台宗改宗などによって準備をした天宥は、二度目の訴訟を起す。訴訟内容は羽黒山を開いた能除太子は湯殿山も開き、天日如来から直々に常火切火という神聖な火を授かった。しかるに七口のうち、岩根沢、肘折、荒沢は羽黒山の下知をよく守っているが、あとの四口は従わないばかりか、羽黒山の専売である常火切火をみだりに使って大変迷惑している。といったもの。これに対して湯殿山側は、もともと羽黒山と湯殿山は関係が無く、湯殿山の開山は空海であり、羽黒山は常火であるが湯殿山は上火であると反論した。この裁判では羽黒山は最近統一改宗したことを指摘され、古くから天台宗であったことを示すために羽黒山の仏師大林房が夢のお告げで発見したという五重塔本尊腹籠の文書と称するものを提出している。寛文六年、湯殿山側の反論「再返答之条々覚書」では、羽黒末でない証拠として、一世行人の存在を前面に出し、一世行人は空海の流れを汲むものであり、真言宗の即身成仏を実践する存在であることを強調している。さらに堂文書では、一世行人入定の図をみたが、真言乗の八第高祖(空海)が書かれていたとある。一世行人の入定の様子を見たといわず、図を見たと言っていることは、この時点ではまだ湯殿山四ヶ寺には入定即身仏は存在していなかったことを証明している。この訴訟を通して湯殿山側には真言宗色を強めるために空海、入定、一世行人、即身成仏という思想的な下地が芽生えた。
天明六年には湯殿山四ヶ寺は「湯殿山法則」を書いた大きな立て札を浄土口と装束場にたてた。その内容は、湯殿山は空海開基の真言宗で、湯殿山奥の院の支配権は湯殿山別当四ヶ寺にあること、湯殿山一世行に院は四ヶ寺から免許を貰うこと、参詣人は湯殿山の別当四ヶ寺の法流に従うこと、が書かれている。さらに「心得違いの輩もこれあり、みだりがましく他の法流をもって、別行あり勤め」とあり、羽黒山が湯殿山へ入会行法で入ってくることを皮肉っている。入会法流とは、判決以後、羽黒山が天台宗でありながら「真言の法流」で拝んでいたこと。寛政元年1789には羽黒山は天海ゆかりの東叡山寛永寺に、小児範を通して湯殿山へ圧力をかけるように画策した。藩は調査したものの、立て札の内容は事実が書かれているだけなので、立て札をとりはずさせる法的根拠がないことを東叡山に報告した。
寛政二年六月二十四日、裏工作が失敗した羽黒山は武力酷使に出た。槍や鉄砲で武装して湯殿山に攻め入り、立て札を奪い取り湯殿山側を挑発した。さらに七月十八日には湯殿山番人を五人羽黒山に連れ去り、逆さにつるして拷問を加えた。この五人は仙人沢山籠中の一世行人が交渉して無事連れ戻された。しかし七月二十五日、大日坊の賽銭番人、伊佐衛門を鉄砲で撃ち殺し、その死体を羽黒山側へ運び去るという事件を起した。
寛政三年、ふたたび高札をとりはずすことと、湯殿山の支配権について寺社奉行へ出訴した。この裁判は寛政十一年まで続いた。裁判で湯殿山側は殺人を犯すほどの羽黒山の横暴を訴えるとともに、湯殿山は真言法流であること、湯殿山には羽黒山のような入峰修行は無く、湯殿山は修験の山ではなくて行人の山であることなどを反論した。結果は双方示談妥協という形で、湯殿山別当は四ヶ寺であること、羽黒山側は湯殿山へ真言宗の法流で入会行法すること、高札は取り去ることなどとなった。
寛文六年より三十年前の寛永十三年には淳海上人が入定、全海上人は寛永六年から正保四年1647まで湯殿山大日坊で修行している。おそらく、新潟の淳海上人が即身仏になった話が、弟子の全海上人によって湯殿山にもたらされ、天台宗の羽黒山に対抗して真言宗の湯殿山を強調する反論の材料とされた。

羽黒山開山縁起では以下のように伝える。能除太子は崇俊天皇の皇子の蜂子皇子。容貌怪異で目が赤くただれ、鼻は長く垂れ下がり、口は耳近くまでさけるという姿だったので皇位につけず、修行の旅にでた。羽黒山に辿り着いたが、山が深かったため入ることができずにいると、三本足の大烏があらわれ、その後をついていって羽黒山を開くことができた。そのご、月山湯殿山を開き、権現から宝珠を授かる。太子はこの宝珠を羽黒山の荒沢に納め、不動と地蔵を本尊とした。そして不動明王が自分の臂を切り、滴り落ちる血が猛火となり、羽黒山の常火となった。
対して、湯殿山側の縁起では開山を弘法大師空海とする。空海が日本海を船で酒田の宮ノ浦に着き、飯盛山に上ると赤川の上流からアビラウンケンの胎蔵界大日如来の五字の梵字が流れてきた。そこで上流の大梵字川を遡って行き、湯殿山に出た。ここで湯殿山権現が八大金剛童子の姿で現れ、空海に上火の作法軌則を授けた。
羽黒山と湯殿山では開山を異にするが、共に常火・上火という「聖なる火」を権現から授かったという点で共通する。明治の神仏分離までは羽黒山では荒沢の常火堂で不滅の常火と火切の作法が伝えられ、湯殿山四ヶ寺でも上火切火の作法が伝えられていた。これらの火は出羽三山信仰の根元であった。
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2012年09月02日

田舎のp日記

そこで 竹内文書の古史古伝(スメラの夢)
は、こっちにおいて於いて 昨日見た鳥居の夢の事を思い出していたら 田辺先生から
あなたは、郷土史を勉強なさっているようでしたら湯殿山と羽黒山とのこれまでの経緯は、多少は、知っていますかと逆に質問され 少しならと答えた。そしたら 真言と天台の話になり更に出羽三山内派閥抗争 の話に もう 田辺先生の独壇場で面白を通り越して裏側に隠された歴史の真実が感じられる内容の中に「空海こと 弘法大使」がでてくるでは、ないですか!あの有名な空海が!先生の話とは、別に夢に出てきた あの古汚いひげボウボウの奴様が実は、とてつもない坊さんだった伝承があった事に始めてきずいた。先生は、羽黒山にお世話になっているので当然 羽黒山側の立場からの話であった。一応お礼を申し上げこちらの勉強不足に対してプロの郷土史の先生に圧倒されたが でもマニュアル的で ロマン が無いようにも感じた、歴史とは、常に 時の権力者の都合上に改ざんされているとは、言え 隠された真実を追い求めるのが 夢(ロマン)を感じるのだった。

出羽三山内派閥抗争 とりねこ より引用 1

 高野山系即身仏が生まれたのは、金剛峰寺と東寺との権力争いが背景にあった。湯殿山において即身仏信仰が盛んになったのもまた出羽三山内での、湯殿山と羽黒山の権力争いが影響している。
 
湯殿山で最初の即身仏、本明海上人が入定するころ、湯殿山四ヶ寺は羽黒山勢力からの政治的圧迫をうけていた。出羽三山は独立した三つの山がそびえているわけではなく、標高1980メートルの月山を主峰とし、峯続きの来たに標高436メートルの羽黒山、月山の西に標高1504メートルの湯殿山がある。湯殿山の300メートルほど下の谷間に温泉が湧出する岩体があり、これを湯殿山の御神体として拝む。
普通、湯殿山というと、この御神体岩をさし、江戸時代には湯殿山御宝前と呼ばれ、現在は湯殿山神社本宮となっている。即身仏になった行人が山籠修行を行っていた仙人沢はこの御神体の少し下にある。湯殿山は出羽三山の総奥の院とされ、他言禁制の霊場とされていた。
八方七口とは八つの登山口があり、それぞれの寺院が上り口を支配した。羽黒山の羽黒口(荒沢口)、阿吽院の肘折口、日月字の岩根沢口、注連寺の七五三掛口、大日坊の大網口、大日寺の大井沢口、本道寺の本道寺口、照高寺の川代口(寛永年間に閉鎖)。注連寺と大日坊の上り口は事実上同じ道であるが、表口別当を公称する関係で形式的に二つになっている。七ヶ寺の内、羽黒口は羽黒修験集団が支配、阿吽院と日月寺は羽黒末寺、注連寺と大日坊と本道寺と大日寺の四つは湯殿山系である。出羽三山といっても、二つの宗教集団が支配していたのである。
注連寺と大日坊は湯殿山表口別当、大日寺と本堂寺は正別当(裏口別当)を名乗った。裏口の寺院から即身仏となったのは、大日寺で一世行人となった明海上人のみである。羽黒山からは、金剛院祐観(弘化四年入滅)の即身仏が宮城県白石市の萬蔵稲荷に祀られていたと伝えられている。しかし、どちらも組織として寺院が生んだ即身仏ではなく、また土中入定伝説ももたず、病死と伝わっている。即身仏信仰を支えたのは湯殿山表口の二つの寺院である。

江戸時代より前までは、修験は、熊野派・大峰派・羽黒派など各地に割拠していたが、家康の宗教改革により本山派か当山派かのいずれかに所属しなければならなくなった。家康は本山派を天下第一位にすえた。
羽黒山の天宥は月山・湯殿山・羽黒山の三山を統一して、天台宗の上野寛永寺の末寺になろうとした。そこで天宥は、天海僧正を頼って天台宗になろうとした。しかし、月山への七つの入り口にある寺のうち、羽黒山の荒沢寺・岩根沢の日月寺・肘折の阿吽院は天宥に従ったものの湯殿山をめぐる七五三掛の注連寺・大網の大日坊・大井沢の大日寺・本堂寺口の本堂寺の四寺は従わず天台宗になることを拒否し、羽黒山とは別の存在だと主張した。
天宥は「四ヶ寺は、本来羽黒の支配する末寺である」と幕府に講義し、160年間にも及ぶ訴訟合戦となった。この論争の最中の寛永13年、即身仏第一号の淳海上人が入定している。
寛永16年、羽黒別当天宥の訴訟に対し幕府は湯殿山の四ヶ寺は羽黒の末寺ではないと判決。四ヶ寺は湯殿山別当寺として独立した寺院活動を始めることになる。
寛文5年、天宥は二回目の上訴を起す。「羽黒山の始まりは人皇三十三代崇峻天皇の第三皇子能除太子であり、湯殿・羽黒両山を開基し、大日如来から直接、常火切火を授けられた。これが羽黒山の常火切火の根本であるのに、湯殿四ヶ寺は羽黒山の下知に従わないばかりか、みだりに常火切火を使用している」と主張した。湯殿山派はこの時はじめて、「湯殿山の宗教は弘法大師開基本の真言宗であり、高野山の本寺より外には他山の下知を守る節目はない」とことさらに高野山を持ち出して抵抗。翌年本道寺から寺社奉行へ提出した『再返答之条々覚書』のなかで「一世行人がいずれも海号をつけるのは空海和尚の海の字をつけたもので、空海の支流を汲むことを示したものであること。また一世行人とは真言密教の根本である一生即身成仏となる異名であること」を示した。このころ、湯殿山にある現存最古の即身仏本明海が仙人沢修行をしている。

湯殿山は羽黒山側に吸収されそうになって『即身成仏義』『十住心論』などの理論武装を始めた。しかし、『再返答之条々覚書』の中に「右の湯殿行法の内証や、弘法大師の理論については愚痴無智の拙僧などでは百分の一も説明することが出来ないから、願わくば本寺の方へお尋ね下され」とあるようにそれまでは真言宗としての意識は低かった。訴訟がエスカレートしたために湯殿山は真言教学をにわか仕込みしたのである。湯殿四ヶ寺の中で、清僧がいたのは大日寺と本道寺だけだった。そもそもは仙人沢における山籠修行をみると羽黒も湯殿も区別がなかったところに家康の宗教改革によって信仰の縄張りができた。
その権力争いは寛永18年、春日局の命令により久米助右衛門という武士が秀忠・秀忠夫人の菩提を弔うために羽黒行人となり、大日坊から仙人沢へ15年間山籠した。名前は春海と改めた。後に老衰して江戸へ帰り、弟子の法海を大日坊から仙人沢へ山籠させたところ、羽黒から大勢やってきて法海を羽黒山へ引き戻したという事件も起した。
posted by 田舎人 at 07:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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