2012年09月14日

田舎の日記

平泉藤原氏の血筋でも有る田川行文(田川太郎)
その太古の時代より蝦夷と東北(出羽国)更には平安末期時代、奥州平泉藤原氏の日本海の湊を守っていた家臣団の一人で有る人物であるし 今の羽黒山神社(明治以前は、立派なお寺さんにて、それを奥州藤原氏の命を受け整備した出羽庄内には、忘れては、ならない人物である。遥か太古の時代に日本海側と大陸との行き来往来は、西側より東側の方が活発であり何故か歴史の本には、出てこないが事実は、東北日本海側と大陸とは、密接な関係であった。その証拠に 大和朝廷が西暦709年ごろまで 新潟(越の国)止まりで出羽進出まで150年間もかかっていた、それは、何故か地元蝦夷の援軍が大陸から来ており それが途絶えた時、一機に大和朝廷より押されたかんじだが それ以降も番外置で奥州藤原氏が栄華を極めた土地柄である。何故か表の歴史は、語ろうとは、しない。実は、そこに歴史の真実が眠っているような気がする。また奥州藤原氏が兄源頼朝から追われて逃げる 源義経のを助けたのも出羽の入り口現在の山形県鶴岡市の南の外れより田川太郎が 手厚く向かい入れ奥州まで届けたエピソードは、有名であり また 新潟県境の鼠ヶ関の関所
わざと 逃がした 代官もやがては、追われ 田川太郎の所に逃げてきて匿ったのは、地元だけが知る史実にて。

中国文献に載っている資料より
 渤海は現在の中国東北部とロシア、北朝鮮にまたがる、朝鮮系の高句麗遺民と
高句麗の北の国にある靺鞨族とでつくられた国である。
渤海と日本との交流は、記録があるだけで 計37回にもわたり、遣唐使が20年に1度なのに対して、2.3年に1度の割り合いという多さなのだという。

727年に始まり、わかっているだけで、少なくとも34回、使節団として2500人が日本に来たとさせる(ちなみに遣渤海使は14回)。
遣唐使にくらべて 渤海使は あまりにも軽視されてきたのではないのかと思えるほどだ。
渤海国は、最近でこそ韓国ドラマの“大祚栄”でも注目されたりしているが、
その実はほとんどわかっていない謎の多い国のようだ。

 当時は 東京/上京という渤海の首都から“日本道”という日本海につづく道もあった。
その終点の、日本海側にある現ロシア沿海地方のクラスキノ遺跡の発掘場所を紹介する。
発掘は まだはじまったばかりなのか、一部しか発掘されていない。
これからの発掘調査が楽しみだ。

平安末期の平泉政権奥州藤原清衡が平泉と京都を結ぶ玄関口として「酒田湊」を開き利用していた。
当時上方や朝鮮半島からもたらされた仏教美術品が廻船で酒田湊に運び、最上川を小舟で上り、本合海(現在の新庄市本合海)で一旦陸揚げし、牛馬の背に乗せて陸路を平泉に向かったという。当時の交易品の運搬は大半が太平洋ルートでなく、陸路でもなく日本海ルートを使っていた。
頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹(徳の前)もしくは後室(徳尼公)を守り36人の遺臣が落ち延びた。秋田市久保田でその姫が乗ってきた白馬が死に、其の地に草庵を作り祭った(草庵の跡に現在の白馬寺が出来たと云うが、現在の白馬寺は1500年頃に出来た寺で其の寺には伝承や古文書などは伝わっていないと云う。)と云い、暫く其の地に滞在した。その後一行は南下して、東田川郡立川町立谷沢の羽黒山(藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられた時、田川太郎を奉行に命じ羽黒山神社の本社の大修理を行っていたからか?羽黒山中の荒沢寺に徳尼公の木造が伝わり、羽黒三山神社の斎館に徳尼公の位牌が伝わっている。)の麓付近に3年程住んだ後、酒田湊{浜中、黒森、八重浜、十里塚}(当時向かい酒田=酒田市袖浦地区飯盛山付近)に逃れたという。そこに徳尼公が小さな草庵(泉流庵と云い、其の跡地に泉流寺が出来た。)を結び、90歳で亡く(1217年4月15日)なったと云う。

出羽国念珠の関(鼠ケ関)が最後の難所であった。出羽国に入ると、平泉藤原氏の領国であり、この関が最後の難関であった。今日伝えるところの鼠ケ関址は江戸時代の関であり、出羽国側にあるが、中世の関は越後領の鼠噛岩といふ海上に突出した地にあったようである。いはば勿来処(くなど)・勿経処(ふなど)の地であり、国境の塞の神を祀る難所に関所が設けられ、海坂神(うなさかがみ)、石動神社を祀っていた。鼠噛岩は海蝕によるものだが、あたかも鼠噛りのやうな岩形をとどめている。
弁慶は念珠ケ関にかかるや、義経を下種(げす)山伏に作りなし、二挺の笈を嵩高(かさだか)に負わせ、「あゆめや法師」と木の枝で鞭うちながら関に近づいた。関守は「何の咎(とが)あって痛めつけるか」と聞くと、「我等は熊野山伏だが、この男は先祖代々熊野に仕えて来た山伏の家の者なのに、旅の途中から行方知れずとなり、漸く最近見つけ出したというわけで、どんなひどい罰でも受けさせたい。」という中にも隙もなく打ち据えて通った。関守は弁慶の機智にまどわされ関の木戸を開けて一行を通した。関をすぎると程なく出羽国に入り、原海(現在のJR鼠ケ関駅前)に宿り、海ぞひの道をたどる。『おくのほそ道』の芭蕉は義経一行とは逆に越後路を目指したわけだが、曾良の『随行日記』は鬼の掛橋の難所を筆にとどめている。まして『義経記』の成立期には道らしき道もなかったであろう。小波渡(こはと)から一行は笠取山に入り、三瀬の薬師堂に向う。
今日薬師堂址はスキー場(八森山ヒュッテ)になっている。『義経物語』や田中本『義経記』では「みせんの薬師」とあるが、これを弥山(温海嶽)として、熊野信仰を指摘した説があるが、温海嶽に熊野権現の祀られたのは近世に入ってからで、「みせん」は「三瀬」の訛語であろう。
義経主従は三瀬の薬師堂で雨降に遭い、出水のため二、三日逗留した。山地ではちよっとした雨でも出水になり、あるがなきかの道は川となつて溢れ出す。
三瀬の薬師堂へ、田川郡の領主田川太郎の使者が来て祈祷を依頼する。使者の話によると、田川太郎の子供が瘧病にかかり、羽黒山が近いので、羽黒山伏を請じて祈って貰ったが、その効験もない。「熊野・羽黒とて、いづれも威光は劣らせ給はぬ事なれども、熊野と申すはいま一入(ひとしほ)尊き御事なれば」貴方がた行者たちもきっと霊験あらたかなことだろうから御祈祷願ひたいという。田川氏の居館に招かれ、義経は護身の役、弁慶は数珠を揉(も)んで祈祷すると、悪霊も死霊も去って、病人は平癒する。
田川太郎の領国庄内の地に威勢を振っていた。『出羽国風土略記』によると、田川氏の居館は田川村の山の際にあり、今は田畑となつて構の土手のみ僅かに残るとしているが、現在は田川小中学校の敷地となつている。田川村字西山の斎藤金治郎氏の敷地内に田川氏の基があるが、典型的な鎌倉期の石塔であり、その巨大さから見て、かっての田川氏の威勢を知ることができる。田川氏の居館は、『義経記』に記すように「羽黒近き」羽黒山信仰のお膝もとで、その領主が「熊野の権現と申すは(羽黒より)いま一入尊き御事なれば」と発言し弁慶の祈祷の結果、「(熊野)権現の御威光の程も思ひ知られ」たというのは、義経記「北国落」が東北文芸として成立したといふ説を否定している。かかる発言は羽黒信仰の強烈だつた東北地方では許容される筈がない。羽黒より熊野が一入尊いとする「北国落」の田川太郎説話は田川氏を代表とする熊野信仰がこの地に成立していたことを明らかにしている。
旧西田川郡や鶴岡市の各部落に殆んどといってよい程、各部落に熊野社が見られる。庄内平野に秀麗な山容を誇る金峯山は、天台宗の三祖慈覚大師円仁の開基と伝える。東北地方の霊地は多く慈覚の開基を称するが、彼の弟子であり継嗣であった延暦寺座主安慧(あんね)が承和十一年(八四四)出羽の講師(こうじ)となつて以来のことで、早くから天台修験が東北地方に進出し、金峯山もまた天台修験の地として、この周辺の熊野信仰の聖地となつていたものであろう。金峯山は古くは蓮華峯といひ、八葉山と呼んだというが、戸川安章氏によると、蓮薬峯・八葉山ともに、天台宗の最も尊重する妙法蓮華経から採ったものであり、蓮の花弁が八葉に分かれていることに基づいている。金峯山青竜寺は久安元年(一一四五)藤原秀衡の再建と伝へているのは、恐らく秀衡の臣であった田川氏によるものと考えてよく、金峯山・熊野長峯・虚空蔵山の三山に囲こまれた地点に田川氏の居館を見る。いはば田川氏は天台系熊野信仰のもとにその勢力を結集していたのである。三瀬葉山の薬師堂もまた東北地方に多い葉山修験の信仰によるものであり、田川氏の居館へは尾根伝ひに通ずる。三山には峯入りのための道が早くから拓かれていたが、田川氏の居館に通ずる道もまた修験者によって拓かれたと考えられる。
弁慶、勧進帳の名場面

 一行は京都から山越えに琵琶湖畔に出、湖水を船で渡り、越前の国〈福井県〉で三の口という関所を通り、加賀の国(石川県)の安宅(あたか)の関所にさしかかる。
 弁慶が、南部東大寺の大仏殿建立のため、諸国を勧進する山伏と申述べ、関守の疑問を解く為に、偽りの勧進帳を読む場面は有名である。
 安宅の関の難関を脱し、海に沿って北へ北へと進んで行った義経主従は、山に寝、辻堂に一夜を過ごし、艱難辛苦して越後の直江津にたどり着く。そこの花園の観音堂に一泊。
ここからは船で越後の寺泊へ渡り、八十八里の浜を過ぎ念珠ケ関(山形県温海町)へさしかかる。
 暗和40年、NHKテレビドラマ「源義経」放映時、義経に対する関心が高まり、鼠ヶ関ではこれを記念し、昭和41年、原作者村上元三拝牽による「源義経ゆかりの碑」が鼠ヶ関の弁天島に建立された。

出羽国に入り、ほっと一息

 義経主従一行は、或る時は羽黒山の山伏、或る時は熊野山の山伏と称して世の目を忍び、長い苦しい潜行の末、ようやく出羽の国へ入つた彼らは、ここからは秀衡の知行所であるとのことで、もう大丈夫だろうと安心し、出水のため三瀬(鶴岡市)の薬師堂に二、三日逗留し旅の疲労を癒す。ついでに田川都の領主田川太郎実房の依頼により、彼の13歳になる一人息子のぎゃへい(物怪)を祈祷によって平癒させ、かくて田川をも発ち、大泉荘大梵寺(鶴岡のこと)を通過し、3月3日清川(立川町、後に勤皇の志士清川八郎の生地)に着き、五所王子〈御諸皇子)神社で一夜をあかした。(昭和40年NHKドラマ源義経」出演の女優藤純子が当時参詣している)御諸皇子の前で御神楽を舞わせ、翌日船で最上川をさかのぼっている。
 本合海か清水で下船。ここから陸路亀割峠を越えて小国郷に入り、堺田、鳴子を経て奥州平泉に逃れたといわれる。
 清川の近く、白糸の滝ドライブイン近くの仙人堂は、義経の従者常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)を祀ったお堂である。最上川をさかのぼった沓喰部落くつはみは、義経の馬にくつわをはめた場所といわれる。


義経は、平泉に到着、秀衡の伽羅の御所の宴の席で、秀衡の子、泰衡、国衡、忠衡と家臣団の紹介を受ける。
 家臣団には、河田次郎、照井高道、佐藤元治、田川太郎、金剛別当秀綱らが登場するが、このうちの田川太郎の一族は、出羽の国、現在の庄内地方東田川郡・西田川郡を所領していた。
 また、秀衡の妹は 徳子、徳前とよばれ、岩城次郎太の未亡人とだったので、徳子尼(トクコアマ)、徳尼公、徳尼さまともよばれた。平泉が鎌倉に敗れた後、彼女の一族でもある、田川太郎をたよろうと大勢の従者とともに一時、立谷沢地区に隠れ住んだ。そこは、妹沢(イモトサワ)と呼ばれ 現在では集落はなく、徳子尼の遺跡や伝説のみが残る。
 徳子尼は、さらにその後、酒田へと移り住んだ。泉流寺のある場所といわれている。そのときの従士、子孫らは、36人衆と呼ばれ、徳子尼を祀り、酒田の街つくりをした。

歴史に もしは、ないといわれるがあえて、
秀衡の遺言どおりに、藤原3兄弟で 義経を大将にして戦っていたら、
泰衡ではなく、国衡を4代目にしていたなら、
国見ではなく、白河の関で鎌倉軍を迎え撃っていたなら・・・など。

 昔から多く語られてきたことだが無念さが残る。

 ところで 安宅の関の話の後、義経主従は無事に平泉に到着したが、
途中の行動が、ドラマでは演じられていないので少し。

 北陸路から念珠ヶ関を越えて 当時平泉の所領であった山形県(庄内)に入り、
清河(庄内町)にある五所の王子社に参拝し、最上川(最上峡)をさかのぼっている。

 現在の国道47号線を新庄へ向かう道である。
その数百年後、”奥の細道”で有名な芭蕉も同じ道を通るのだが、
義経のルートとはちょうど逆方向(新庄から庄内)に通る。

 途中の羽黒山には、頼朝が寄進したといわれる黄金堂(こがねどう・国の重要文化財)がある。
頼朝が平泉を討つにあたり、勝利祈願(1193)し、その御礼に寄進したとも伝えられる。

 黄金堂という社名は、平泉の金色堂を思い起こさせる。
他にもたくさんある出羽三山の神社、寺院のなかで、
なぜ、頼朝は黄金堂を寄進したのだろう?
それも場所が羽黒山の随神門や山頂からかなり離れている
羽黒山の宿場町、手向(とうげ)の入り口近くに。
社名からして頼朝も平泉の金色堂を意識したのかもしれない。

 ドラマでは、頼朝が念仏堂にこもっているのに、政子と時政がはしゃいでいて
ふと藤原氏や義経が敗北したのは頼朝ではなく 北条氏なのかな?と思ったりした。
 藤原氏や義経の無念さでは終わらせないで
きれいな形でよい印象に残すように配慮されていたと思う。


(※ 写真は黄金伝説などがある黄金堂。雪囲い中の05年秋に撮影。
色は金色ではなく何も塗られていない無垢のお堂。
正善院という寺でもあり、建立は、
古く聖武天皇の時代、728年(神亀5)とも伝えられる。)

 田川には田川太郎の館があり、『義経記』に源義経と弁慶が祈祷をして、太郎の子の病を治したと記されています。それで義経と弁慶は行をしめたのが行〆という伝説があります。

庄内地方の義経伝説
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 期待されながも夭折した人物を応援したい心情からか、日本人は義経のような人物に強く惹かれるところがある。平泉に落ち延びる経路であった庄内地方には、至る所に義経伝説が残り、語り継がれている。
伝説第一話、
 「念珠関(ねずがせき)」では、義経一行は羽黒山の山伏姿になり、弁慶は義経には二つの笈を負わせて、後ろから「歩けや法師」と杖で打ちすえて、関所を通ることができたと言われる。昭和40年頃、ドラマ「源義経」の放映を記念し、原作者村上元三の筆による「源義経ゆかりの浜」という碑を「鼠ヶ関」に建立している。(史実と思う)
伝説第二話、
源義経一行が庄内町清川に立ち寄り、御諸皇子神社(ごしょのうじじんじゃ) で一夜を明かした。その時、御諸皇子神社に奉納されたという義経の笛や弁慶の祈願文が今でも残されている。幕末に活躍した清川八郎の祖母は余目の宮曽根村・佐藤市郎左右衛門の出で、この家は義経四天王の一人佐藤継信の子孫だという。(史実と思う)
伝説第三話、
酒田市本楯には「新田目城」(あらだめ)があるが、ここにも義経一行が 立ち寄り、太刀一振りを献上したという伝説が残る。この太刀は今もあるが、それを証明する古文書は戦後まもなく失火で消失したという。義経の当時、「新田目城」 は東北では、多賀城と並ぶ規模の大きい城であり、義経一行が挨拶を兼ねて立ち寄ったことも想像は出来る。あるいは、新田目城側から挨拶に出向いたことも考えられる。
 ただ、先を急ぐ一行は清川辺りから最上川を舟で遡ったとの伝説の方が自然に思われる。(本楯の人は残念だろうが、疑問が残る)
伝説第四話、
 遊佐町の月光川(がっこうがわ)に架かる、映画「おくりびと」が撮影された「朝日橋」から、約一キロ上流の右岸あたりに、「もんぺはげ」と呼ばれる崖が ある。この崖は、遠くから見ると「もんぺ」のような形で、崖の地肌が見えることから「モンペはげ」と呼んでいた。この崖は弁慶が滑り降りたときに出来たという伝説がある。(そう聞かされたが、作り話だろう)
 この「モンペはげ」前の月光川の河原では、よく「芋煮会」をやったものだが、最近では、朝日橋の辺りが指定の場所のようだ。

2) 源義経伝説
 源義経は、鎌倉幕府創立期に活躍した武将である。父は源義朝、母は九條院の雑仕(下級の女官)常盤である。
 幼名は牛若、通称九郎。「義経記」によると、義経の生まれた平治元年(1159)の暮れに平治の乱があり、この戦いで平氏と対立した父義朝は、翌年正月、敗走の途中殺された。牛若も母とともに捕われたが一命を助けられ、母の再婚した大蔵卿・藤原長成に養われた。 のち鞍馬山に送られたが、16歳のとき出家を嫌って陸奥の藤原秀衡を頼って奥州平泉におもむいた。
 治承四年(1180)兄頼朝の挙兵を知って、同年10月21日黄瀬川の陣で兄に対面、その後、壇の浦の合戦など、各地において平氏の軍勢を撃破し、はなばなしい戦功をたて、一躍名将としての名を馳せた。

 しかし兄頼朝にとって、壇の浦の戦いで安徳天皇と三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺曲玉瓊勾玉)のうちの剣を失ったことは、義経の大きな戦功とは裏腹に、大きな衝撃であった。さらに朝廷が頼朝に無断で義経に官位を与えたことや、頼朝の側近側梶原景時が義経の専断・独断を訴えたことなどがこれに拍車をかけ、ついに義経追討の命が下った。
 やむなく義経は西海に逃れようとして船出したが暴風にあって難破し、その後、吉野・奈良・叡山・伊勢・美濃などを転々として隠れ歩いた。ついに、義経は奥州藤原氏を頼って越後から庄内へ向かった。
「念珠の関守きびしく、通るべきよしもなければ如何せんと仰せられ」とある。
 そのころ奥州に入る関所は、白河の関と出羽の念珠ケ関の二つであった。弁慶の機転により義経を身分の低い山伏に仕立てて二つの笈を持たせ、大きな若木の枝でしたたかに叩きながら、関守が呆気にとられている間に、無事木戸を通ったという。

 それから海岸の細道を通って三瀬の薬師堂に着き、出水のため2〜3日滞在した。
田川の豪族・田川太郎の一子が悪病に悩まされていた折柄、熊野山伏一行が三瀬にいると聞き及び、一行に祈祷を頼みに来た。義経たちは止むを得ず出かけ、数珠押しもんで祈祷し、首尾よく悪病をなおしたという。
それより大梵寺・鶴岡を通り、北の方の産月間近なので羽黒山に弁慶を代参させ、清川の五所王子の前で一夜を明かし、最上川を遡った。

 なお、清川の斎藤家系譜(清川八郎の生家の系譜)に、次のことが書いてある。
 「義経潜行して清川に至るとき、斎藤治兵衛の家に迎えて数日歓待す。義経、弁慶をして羽黒山に代参せしむ(そのころの羽黒山表参道は、立谷沢村蜂子よりとした)。去るに臨んで佩る所の刀を解て寄贈す。刀はすなわち鬼王丸の作なり。今なお保存して家宝とすると。」

    最上川岩こす浪に月さへて よるをもろしき白糸の滝    義経
    最上川瀬々の岩なみ早ければ よらでぞ通る白糸の滝  北の方

 以上の歌が遺っているところを見ると、日中の人目を避け、夜に最上川を遡行したものと思う。文治三年(1187)、義経一行は最上川を遡行して奥州平泉にたどり着いたが、頼りにしていた秀衡が死ぬと、翌四年2月、義経追討の宣旨(天皇の命令を伝える文書)が下り、京都・鎌倉からの藤原氏追求がきびしくなった。

 同五年閏4月30日、義経は藤原秀衡の子・泰衡のために、妻子とともに衣川館で殺され31歳の生涯を終えた。鞍馬山から奥州平泉の秀衡を頼っていったのは、行商人金売吉次のすすめと、その案内によるところが大きかったという

posted by 田舎人 at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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