2012年09月12日

田舎の日記

佐藤住職の話しに 納得しない事も有り 空海の伝承を知っていると言う人を片っ端から探し 訪ねて見る必要性と 大半が 老人たちで有る為 寿秋としては、ある良きアイデアが有った。まぁ兎に角 寺を出よう即身仏・ミイラの伝承は、また あとで 機会を儲けて?同級生の佐藤住職にお礼を告げ階段をおりた。ここにも 空海が訪れたのであろう そんな高台に有るパワースポットを感じる 素晴らしい土地に立っているお寺だけ有って参拝者の後がたたなく繁盛の様子が伺える。
寺を後にした寿秋は、空海が もし 来るとしたら 唐から来て間もなく太宰府に足留め食らった 三年から数年の全く 記録が無かった時期であろう!また船を使えば日本海側北航路で 充分可能性が大にて。よし それなら 片っ端から伝承を探すぞ と意気込み 旧赤川沿いの 爺 婆さん たちの集まり所へ 唐突に話しを切り出した。駄目もとして あっち こっち 中々 解らない 老人は、多い 事に驚いた そんな中で 浜辺地区で おらほへ コジキみだいなぁ 坊主 昔 昔 来たなんけどや あんまり気持ち悪いので どうか 暖と 食べ物をお願いしている 坊主に対して 石投げて 追い返してやったんぞ そしたら 毎年 浜辺に 薪が海から 流れて来るのに それ以来 流れて来なくなり 薪に不自由に村がなって 罰が当たったんだど。それに対して もっと先の海岸地区の村の油板と言う所では、その坊さんを 数少ない薪で貴重でしたが 坊さんの為にそれで暖を取り オカユを煮て 食べさせたとさぁ!そしたら お礼に 来年から 沢山の薪が流れて来て 冬に必要なだけ来ると言われるその通りいっぱい枝が流れて冬に困らなくなった話しにて。
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2012年09月11日

田舎の日記

佐藤住職とは、確か星山君と今も仲良しで行き来往来しているはずで有るので彼から連絡を取って貰い、一度会う事にしてもらった。久々で会って見ると 高校時の悪ガキ だった時の話しで盛り上がった。私の方から切り出した。佐藤住職に是非とも聞きたい事が会ってなぁ!空海や真言密教とか調べていて全然解らないので教えてもらいたいんだ? 何をお前 プロでも無いのに どういう心の心境か!実は空海がこの地域に来た事が本当のような感じしてならないんだが!真言密教 の寺として から見ての見解は、どう思う! ズバリ 本人は、来てなく 弟子が その後に訪れたのでは、無いかと思うこの地域には、空海が来た伝承が有るが 正式な文献が 全国レベルでこの土地に来た 記録がないのが 致命的だと思う! そうか 専門がそう言うのでは、やっぱりそうなのかなぁ!それよりなぁー 即身仏・ミイラの伝承も凄い歴史的意味があるよ!しかし寿秋は、なぜか ひかかっていた。それは、彼の天性の第六感が働いた証で有った、後に第六感が見事に炸裂するとは、今の時点では、予想もつかなかっただろう!
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2012年09月10日

田舎の日記

さぁーて 空海が来た 文献が2つ 3つ有る中で 宮野表からと 書いて 有るが 大日如来が 現れて それに導かれる 様子だと 実際 その辺りの現場に足を入れなければと 寿秋は、浜辺から米盛山の50メーター弱の 高さの山と言うよりは、丘と言っていい所で暫く考えていた。何か 距離が文献で表している何里 何里 と 表しているが ボイント ポイント ごと 風景とミス マッチングしているような気がした。何でだろう!1200前の話しだからかなぁ!後 最上川と旧赤川が合流したとしたら この米盛山の辺りでもあるが何故が釈然としないなぁ?山の中を走っている川なら 谷間を行くので 千年単位でも 同じ場所だと思うが 二本も三本も川が合流、しかも この広い平野を蛇のように曲がりくねって 川幅や位置を変えていると思うので今の宮野表の浜辺やら砂丘に疑問が感じると自分なりに考えていた。そんな時 パット閃いた、空海と言えば 密教 えーと 高校時代のクラスは、別だが お寺さんの後を就いている佐藤がいたのを 思い出した あの当時 悪友のそのまた友にて。一応連絡とるか!
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2012年09月07日

田舎の日記

そうした向きと距離についてペルシャや中東、古代ローマ帝国の教えすなわち景教の影響か!神社 仏閣も みな 歴史が有り 生きて行く為に、光と闇 表と裏 陰陽が有るので きちんと見極めが必要かと!待てよ そうすれば 仏教関係は、蘇我氏が広めた経緯から 紀元前 神武天皇から 始まったと された 日本書紀 古事記 での 内容は、神社であり 当然 大分 古い歴史で有ることが考えられる 逆にそう言った地域に伝わる 口伝や伝承に何かが大いに 隠されているものと寿秋は、確信するのだった。しかし 原点は、空海を調べているのだから 地元に残されている資料を探す事にて 最初に何から初めてようかと迷っていたが赤川と言う川を上って 湯殿山を目指す訳だから赤川を調べなくては、当然 伝承も 必ず 有るはず 自分の家にも こうして 偉い坊さんが 来たんだと有るくらいだからと!
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2012年09月06日

田舎の日記

暇をみては、信樹から借りた本を熟読した。しかし 何故か 解らない 部分が多すぎる。もう 文献とか 証拠物 以上に スピリチュアルな要素を取り入れて 自分の頭で組み立てて 考えていかないといけない。何が本当で何が嘘か?真実とは!まぁ兎に角 片っ端から 本を読みあさったし 暇をみては、神社仏閣に 足を運んだ。周りからは、 彼は、いよいよ 頭が変になり 近寄らない方が良いとまで噂されたが そんなの お構い無しで調査に挑んだ。見れば見る程 知れば知る程 摩訶不思議で有る。何故 神社の鳥居 に 赤と白の二種類が有って 何が目的で使い分けているのか?お稲荷様も本当は、狐の神様では、無く 豊受の神様で稲の大黒会ったのが様がどう変身して いつから狐様になり厚揚げが御供物になったのか!神社の方角が皆まちまちで有ったり神社やお寺にもその時代の権力者や利権からみに影響を受け 皆 生き残りを掛けて進化して行った様子が伺える。例えば 正門から 真っ直ぐで無く 20度位 ずらしてて居たり また 屋根の装飾品もその対象にて。
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2012年09月05日

田舎の日記 

そうか!そうだったのか!トテツもなく 偉く 偉い 坊さんとは、弘法大師 空海 だったんだと 改めて 事の重大性に気付いた。 しかし 何故 このような 場所に! 田辺先生より 更に 歴史を勉強しなければならない そうだ どうせ いまいま 仕事が見つかりそうでも無いし 何か好きな事でもやった方が気が楽になる。寿秋は、善は、急げと 本屋と図書館に入れ込み毎日が始まった。
それと幼なじみの
斉藤 信樹君を 思い出した。彼こそ 生き字引的 色んなジャンルを問わず 本と言う本を読み尽くしてきた天才的存在も居たことを思いだした。彼に会いに行った時、信樹よ 俺の話し聞いてくれるか? なんだよ トシさんよ 改まって? またこの年なってから 好きな郷土歴史にはまって 図書館や本屋に入り浸っているのだか! 知っているよ! そちらの同級生の 高徳が 寿秋、失業して職に着けなくって 頭 おかしくなって 変な 宗教の本 読み漁っていると ウツ気だとか 直治が 神社や寺周りしている トシさんを見て いよいよ だなぁ 川に身投げが迫っているとか 噂していたよ? いいよ 良い職業や安定している生活を送れる奴らのどうせ 下らない噂など 気にしないよ 言いたい奴は、何とでも言ってくれ! それより信樹よ この里は、実は
縄文土器が出土していると言う事は、歴史が有り かなりの文明が有ったと言う事では、ないかね?それと 日本海の海も近いし 大陸と往き来往来も含め 太古の文明がもしかしたら 有ったのでは、ないか!んー 否定は、しない それと ちょっと類似するんだが 聖書の裏読み見たいな本で最近の文明の起こりを書いた 一般には、知られていない本をかすよ ニビル星からのアヌンナキ エンキが出てきて 人類に影響を与えた宇宙人の話しさぁ! えー宇宙人? わかったよ 竹内文書にも宇宙から書いてあったし 一応借りるよ!
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2012年09月04日

田舎の日記

出羽三山内派閥抗争 とりねこ より引用 3

羽黒山と湯殿山の泥沼の闘いは廃仏毀釈の衝撃によってようやく落ち着くこととなった。庄内藩は幕府勢力として戦っていたため、廃仏毀釈の太政官布告が寺院に通達されたのは明治二年五月であった。もともと修験道は密教、道教、民俗宗教などが混淆した宗教であり、神仏分離が不可能であるため出羽三山は混乱した。明治三年、湯殿山四ヶ寺は旧幕府による判決通り、湯殿山は空海開基による仏法の山で、太政官布告に違反しないことを上申した。さらに湯殿山は、月山のようには国史に出ておらず、仏の山であり、神の山ではないことを証明するように国に求めたが、神祇官は証拠のみつからないまま、明治四年に湯殿山を神の山と決定してしまった。これより後は湯殿山川寺院は神道に改宗しなければ湯殿山奥の院の支配権を失うことになり、裏口の本道寺、大日寺は神道に改宗した。
一方、羽黒山も明治三年に新山と決定され、四年に上層部の別当と山内がいち早く神道に切り替えた。荒沢寺、積善院、金剛樹院だけが仏教徒してとどまったが、これは将来仏教が再び盛んになる時代のためにの用心として仏像や仏具と共に残しておこうという政治的配慮だった。しかし別当の交代により、結局は全て神道へ改宗した。

以上みてきたように、湯殿山で熱狂的に即身仏が信仰され、また即身仏が作られたのは、羽黒山との争いの中で自らの出所を真言宗へ求め、空海の入定伝説によるところが大きかった。自らの正統性を主張するべく、湯殿山側寺院が一世行人を即身仏にして祀り上げて自ら盛り上がっていた側面があったのではないだろうか。

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2012年09月03日

田舎の日記

出羽三山内派閥抗争 とりねこ より引用 2

二回目の訴訟に敗れてから2年後の4月、配下の悪僧に後継者問題によって謀られ、天宥は幕府によって伊豆の新島へ流刑となった。一方湯殿山側では天和3年、本明海上人が入定即身仏第二号となる。続いてその四年後に貞享4年には全海上人が入定、宝暦5年忠海上人が入定、天明三年には真如海上人が入定と、寛文年間の訴訟後に急激に湯殿山の入定即死物が誕生し、湯殿山は全盛期を迎える。
訴訟において主張した「空海の弟子であり、即身成仏をめざす一世行人なり」を実証してみせた結果になった。勢いのついた湯殿山側は天明6年、湯殿四ヶ寺は連盟で湯殿山の浄土口と装束場へ「湯殿山法則」と呼ばれる真言四ヶ寺による湯殿山独占宣言をだした。これを受けて天宥の依頼を受けた寛永寺から庄内藩へ交渉の使者が立ったが、庄内藩では撤去の理由無し、と返事される。やむなく羽黒山側は幕府へ再び上訴。八年間の訴訟の後、「羽黒湯殿とも曖昧な点が多い、従ってその当否を判断できない。故に各別当は先規の法流を遵守して、相互に相犯すことがあってはならない」と判決が出た。

羽黒山側が湯殿山を吸収したかったのには信仰上の理由もあった。「三関三渡」とは羽黒山は現世の観音、月山は阿弥陀浄土、湯殿山は大日法身の地である寂光浄土。「三山三宿」羽黒山は胎蔵界、月山は金剛界、湯殿山は金胎一致の理想世界。湯殿山は三山総奥院で最神秘の礼状とされて、別格であったのだった。
江戸時代になり出羽三山信仰が盛んになると、三山を順番に拝まなくても湯殿山にだけ上って拝めば三山を拝んだのと同じご利益があるとされて、八方七口のうちで、湯殿山四ヶ寺は独自の発展を遂げて大きくなった。羽黒山側は急成長する湯殿山勢力に不安を感じた。 寛永七年、羽黒山では天宥が第五十世別当に就任した。天宥は政治的手腕に優れ、幕府権力と結びつき、湯殿山勢力を支配下において羽黒山の躍進を図った。
寛永十一年、天宥は江戸城にのぼり、公儀へ別当の跡目相続の挨拶をし、将軍や老中、天海僧正などに贈り物をした。寛永十三年より、天宥は隔年で江戸へ上がるようになる。寛永十八年、それまで天台宗を中心に顕密禅と各宗入り乱れていた羽黒山を全山天台宗に改宗統一し、天海の弟子となった。こうして天海に接近した天宥は、羽黒山末に湯殿山四ヶ寺をしてほしいと頼み込んでいる。寛文五年1665、天台宗改宗などによって準備をした天宥は、二度目の訴訟を起す。訴訟内容は羽黒山を開いた能除太子は湯殿山も開き、天日如来から直々に常火切火という神聖な火を授かった。しかるに七口のうち、岩根沢、肘折、荒沢は羽黒山の下知をよく守っているが、あとの四口は従わないばかりか、羽黒山の専売である常火切火をみだりに使って大変迷惑している。といったもの。これに対して湯殿山側は、もともと羽黒山と湯殿山は関係が無く、湯殿山の開山は空海であり、羽黒山は常火であるが湯殿山は上火であると反論した。この裁判では羽黒山は最近統一改宗したことを指摘され、古くから天台宗であったことを示すために羽黒山の仏師大林房が夢のお告げで発見したという五重塔本尊腹籠の文書と称するものを提出している。寛文六年、湯殿山側の反論「再返答之条々覚書」では、羽黒末でない証拠として、一世行人の存在を前面に出し、一世行人は空海の流れを汲むものであり、真言宗の即身成仏を実践する存在であることを強調している。さらに堂文書では、一世行人入定の図をみたが、真言乗の八第高祖(空海)が書かれていたとある。一世行人の入定の様子を見たといわず、図を見たと言っていることは、この時点ではまだ湯殿山四ヶ寺には入定即身仏は存在していなかったことを証明している。この訴訟を通して湯殿山側には真言宗色を強めるために空海、入定、一世行人、即身成仏という思想的な下地が芽生えた。
天明六年には湯殿山四ヶ寺は「湯殿山法則」を書いた大きな立て札を浄土口と装束場にたてた。その内容は、湯殿山は空海開基の真言宗で、湯殿山奥の院の支配権は湯殿山別当四ヶ寺にあること、湯殿山一世行に院は四ヶ寺から免許を貰うこと、参詣人は湯殿山の別当四ヶ寺の法流に従うこと、が書かれている。さらに「心得違いの輩もこれあり、みだりがましく他の法流をもって、別行あり勤め」とあり、羽黒山が湯殿山へ入会行法で入ってくることを皮肉っている。入会法流とは、判決以後、羽黒山が天台宗でありながら「真言の法流」で拝んでいたこと。寛政元年1789には羽黒山は天海ゆかりの東叡山寛永寺に、小児範を通して湯殿山へ圧力をかけるように画策した。藩は調査したものの、立て札の内容は事実が書かれているだけなので、立て札をとりはずさせる法的根拠がないことを東叡山に報告した。
寛政二年六月二十四日、裏工作が失敗した羽黒山は武力酷使に出た。槍や鉄砲で武装して湯殿山に攻め入り、立て札を奪い取り湯殿山側を挑発した。さらに七月十八日には湯殿山番人を五人羽黒山に連れ去り、逆さにつるして拷問を加えた。この五人は仙人沢山籠中の一世行人が交渉して無事連れ戻された。しかし七月二十五日、大日坊の賽銭番人、伊佐衛門を鉄砲で撃ち殺し、その死体を羽黒山側へ運び去るという事件を起した。
寛政三年、ふたたび高札をとりはずすことと、湯殿山の支配権について寺社奉行へ出訴した。この裁判は寛政十一年まで続いた。裁判で湯殿山側は殺人を犯すほどの羽黒山の横暴を訴えるとともに、湯殿山は真言法流であること、湯殿山には羽黒山のような入峰修行は無く、湯殿山は修験の山ではなくて行人の山であることなどを反論した。結果は双方示談妥協という形で、湯殿山別当は四ヶ寺であること、羽黒山側は湯殿山へ真言宗の法流で入会行法すること、高札は取り去ることなどとなった。
寛文六年より三十年前の寛永十三年には淳海上人が入定、全海上人は寛永六年から正保四年1647まで湯殿山大日坊で修行している。おそらく、新潟の淳海上人が即身仏になった話が、弟子の全海上人によって湯殿山にもたらされ、天台宗の羽黒山に対抗して真言宗の湯殿山を強調する反論の材料とされた。

羽黒山開山縁起では以下のように伝える。能除太子は崇俊天皇の皇子の蜂子皇子。容貌怪異で目が赤くただれ、鼻は長く垂れ下がり、口は耳近くまでさけるという姿だったので皇位につけず、修行の旅にでた。羽黒山に辿り着いたが、山が深かったため入ることができずにいると、三本足の大烏があらわれ、その後をついていって羽黒山を開くことができた。そのご、月山湯殿山を開き、権現から宝珠を授かる。太子はこの宝珠を羽黒山の荒沢に納め、不動と地蔵を本尊とした。そして不動明王が自分の臂を切り、滴り落ちる血が猛火となり、羽黒山の常火となった。
対して、湯殿山側の縁起では開山を弘法大師空海とする。空海が日本海を船で酒田の宮ノ浦に着き、飯盛山に上ると赤川の上流からアビラウンケンの胎蔵界大日如来の五字の梵字が流れてきた。そこで上流の大梵字川を遡って行き、湯殿山に出た。ここで湯殿山権現が八大金剛童子の姿で現れ、空海に上火の作法軌則を授けた。
羽黒山と湯殿山では開山を異にするが、共に常火・上火という「聖なる火」を権現から授かったという点で共通する。明治の神仏分離までは羽黒山では荒沢の常火堂で不滅の常火と火切の作法が伝えられ、湯殿山四ヶ寺でも上火切火の作法が伝えられていた。これらの火は出羽三山信仰の根元であった。
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2012年09月02日

田舎のp日記

そこで 竹内文書の古史古伝(スメラの夢)
は、こっちにおいて於いて 昨日見た鳥居の夢の事を思い出していたら 田辺先生から
あなたは、郷土史を勉強なさっているようでしたら湯殿山と羽黒山とのこれまでの経緯は、多少は、知っていますかと逆に質問され 少しならと答えた。そしたら 真言と天台の話になり更に出羽三山内派閥抗争 の話に もう 田辺先生の独壇場で面白を通り越して裏側に隠された歴史の真実が感じられる内容の中に「空海こと 弘法大使」がでてくるでは、ないですか!あの有名な空海が!先生の話とは、別に夢に出てきた あの古汚いひげボウボウの奴様が実は、とてつもない坊さんだった伝承があった事に始めてきずいた。先生は、羽黒山にお世話になっているので当然 羽黒山側の立場からの話であった。一応お礼を申し上げこちらの勉強不足に対してプロの郷土史の先生に圧倒されたが でもマニュアル的で ロマン が無いようにも感じた、歴史とは、常に 時の権力者の都合上に改ざんされているとは、言え 隠された真実を追い求めるのが 夢(ロマン)を感じるのだった。

出羽三山内派閥抗争 とりねこ より引用 1

 高野山系即身仏が生まれたのは、金剛峰寺と東寺との権力争いが背景にあった。湯殿山において即身仏信仰が盛んになったのもまた出羽三山内での、湯殿山と羽黒山の権力争いが影響している。
 
湯殿山で最初の即身仏、本明海上人が入定するころ、湯殿山四ヶ寺は羽黒山勢力からの政治的圧迫をうけていた。出羽三山は独立した三つの山がそびえているわけではなく、標高1980メートルの月山を主峰とし、峯続きの来たに標高436メートルの羽黒山、月山の西に標高1504メートルの湯殿山がある。湯殿山の300メートルほど下の谷間に温泉が湧出する岩体があり、これを湯殿山の御神体として拝む。
普通、湯殿山というと、この御神体岩をさし、江戸時代には湯殿山御宝前と呼ばれ、現在は湯殿山神社本宮となっている。即身仏になった行人が山籠修行を行っていた仙人沢はこの御神体の少し下にある。湯殿山は出羽三山の総奥の院とされ、他言禁制の霊場とされていた。
八方七口とは八つの登山口があり、それぞれの寺院が上り口を支配した。羽黒山の羽黒口(荒沢口)、阿吽院の肘折口、日月字の岩根沢口、注連寺の七五三掛口、大日坊の大網口、大日寺の大井沢口、本道寺の本道寺口、照高寺の川代口(寛永年間に閉鎖)。注連寺と大日坊の上り口は事実上同じ道であるが、表口別当を公称する関係で形式的に二つになっている。七ヶ寺の内、羽黒口は羽黒修験集団が支配、阿吽院と日月寺は羽黒末寺、注連寺と大日坊と本道寺と大日寺の四つは湯殿山系である。出羽三山といっても、二つの宗教集団が支配していたのである。
注連寺と大日坊は湯殿山表口別当、大日寺と本堂寺は正別当(裏口別当)を名乗った。裏口の寺院から即身仏となったのは、大日寺で一世行人となった明海上人のみである。羽黒山からは、金剛院祐観(弘化四年入滅)の即身仏が宮城県白石市の萬蔵稲荷に祀られていたと伝えられている。しかし、どちらも組織として寺院が生んだ即身仏ではなく、また土中入定伝説ももたず、病死と伝わっている。即身仏信仰を支えたのは湯殿山表口の二つの寺院である。

江戸時代より前までは、修験は、熊野派・大峰派・羽黒派など各地に割拠していたが、家康の宗教改革により本山派か当山派かのいずれかに所属しなければならなくなった。家康は本山派を天下第一位にすえた。
羽黒山の天宥は月山・湯殿山・羽黒山の三山を統一して、天台宗の上野寛永寺の末寺になろうとした。そこで天宥は、天海僧正を頼って天台宗になろうとした。しかし、月山への七つの入り口にある寺のうち、羽黒山の荒沢寺・岩根沢の日月寺・肘折の阿吽院は天宥に従ったものの湯殿山をめぐる七五三掛の注連寺・大網の大日坊・大井沢の大日寺・本堂寺口の本堂寺の四寺は従わず天台宗になることを拒否し、羽黒山とは別の存在だと主張した。
天宥は「四ヶ寺は、本来羽黒の支配する末寺である」と幕府に講義し、160年間にも及ぶ訴訟合戦となった。この論争の最中の寛永13年、即身仏第一号の淳海上人が入定している。
寛永16年、羽黒別当天宥の訴訟に対し幕府は湯殿山の四ヶ寺は羽黒の末寺ではないと判決。四ヶ寺は湯殿山別当寺として独立した寺院活動を始めることになる。
寛文5年、天宥は二回目の上訴を起す。「羽黒山の始まりは人皇三十三代崇峻天皇の第三皇子能除太子であり、湯殿・羽黒両山を開基し、大日如来から直接、常火切火を授けられた。これが羽黒山の常火切火の根本であるのに、湯殿四ヶ寺は羽黒山の下知に従わないばかりか、みだりに常火切火を使用している」と主張した。湯殿山派はこの時はじめて、「湯殿山の宗教は弘法大師開基本の真言宗であり、高野山の本寺より外には他山の下知を守る節目はない」とことさらに高野山を持ち出して抵抗。翌年本道寺から寺社奉行へ提出した『再返答之条々覚書』のなかで「一世行人がいずれも海号をつけるのは空海和尚の海の字をつけたもので、空海の支流を汲むことを示したものであること。また一世行人とは真言密教の根本である一生即身成仏となる異名であること」を示した。このころ、湯殿山にある現存最古の即身仏本明海が仙人沢修行をしている。

湯殿山は羽黒山側に吸収されそうになって『即身成仏義』『十住心論』などの理論武装を始めた。しかし、『再返答之条々覚書』の中に「右の湯殿行法の内証や、弘法大師の理論については愚痴無智の拙僧などでは百分の一も説明することが出来ないから、願わくば本寺の方へお尋ね下され」とあるようにそれまでは真言宗としての意識は低かった。訴訟がエスカレートしたために湯殿山は真言教学をにわか仕込みしたのである。湯殿四ヶ寺の中で、清僧がいたのは大日寺と本道寺だけだった。そもそもは仙人沢における山籠修行をみると羽黒も湯殿も区別がなかったところに家康の宗教改革によって信仰の縄張りができた。
その権力争いは寛永18年、春日局の命令により久米助右衛門という武士が秀忠・秀忠夫人の菩提を弔うために羽黒行人となり、大日坊から仙人沢へ15年間山籠した。名前は春海と改めた。後に老衰して江戸へ帰り、弟子の法海を大日坊から仙人沢へ山籠させたところ、羽黒から大勢やってきて法海を羽黒山へ引き戻したという事件も起した。
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2012年09月01日

田舎の日記 

久々の羽黒山である。出羽三山の神々を奉り また 修験道の聖地とまで言ってもよい
歴史ある場所では、あるが 地元としては、観光スポットの一箇所位の感覚でもある普通の場所である。さぁーて 観光客で相変わらずにぎやかな風景に せっかく来たのだから茶店でコンニャクでも食べるかと思い気や いたいた 山伏のホラ貝もっていた おじさんが 聞いてみようと! 山伏のおじさんからは、ここの歴史とか その他、もろもろは、
展示館の田辺先生に聞いた方が良い 一番詳しい先生ですと言われ それじゃと 展示館を尋ねた。まぁ この規模なると 宮司さんは、俺みたいな何処の馬の骨見たいな無名選手など到底相手にしてくれないしまた その田辺先生も怪しいモノだ 門前払いかもしれないが 駄目もとにて 受付で田辺先生に是非 お会いしたいのですがと話したら 事務所の向こうに通されて 向こうから どのようなご用件でしょうかと 言われ 実は、郷土歴史を自分なりに探求している者ですが この地域で一番古いこの羽黒山神社に来れば何かわかるのかと思いやってきました。先方もキョトンとして 中へどうぞと通され 自分なりに一生賢明 話したつもりだが要点が絞り切れてなく 先生より出羽三山は、月山、羽黒山、湯殿山の総称であり、古くから山岳修験の山として知られている。開山は約1,400年前、第32代崇峻天皇の皇子である蜂子皇子が三本足の霊烏に導かれ、羽黒山に登拝し、羽黒権現を獲得、山頂に祠を創建したのが始まりとされている。皇子はさらに月山権現と湯殿山権現を感得し、三山の開祖となった。以後、羽黒派古修験道として全国に広がったのである。 あなたが言おうとしている その前の古い歴史については、資料も無く何とも話そうがない 文献にない事は、憶測に過ぎず 歴史家としては、公には、語れないと
ビシィ と言われ 何をいっても 駄目であった。
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